10/07/2006 にアップした文章です。

 

何の番組だったか、土曜日の朝、シャワーを浴びてあと、ふとTVを見たら徳光和夫氏がキャスターをしており、「子どもたちの将来のためにできること」というシリーズで、戸塚ヨットスクールの取材を丹念にしていました。数ヶ月前にコレについて書いたのですが、私は何を聞いても何を見ても、自分の意見は変えていません。

体罰は必要ではありませんっ!

私が本当にひとつだけ例外としたのは、生命や健康の危機に直面したときに、咄嗟に反応として避けたり突き飛ばしたり、目覚めさせるための暴力行為です。ストーブに今にも手を触れそうになっている3歳の子どもに諭している暇はないし、車の前に飛び出そうとしている子どもの手をぐいっと引っ張ったり、必要ならば突き飛ばしたりすることについては体罰とはみなしません。

同じ番組に出ていた白髪頭の50代くらいの男性は(知らないんだよなぁ、芸能人や著名人・・・すまん)、『俺らも殴られて育った。体罰は必要だと思う』と言っていました。が、もうひとり、40前半くらいの男性が『必要なし』と言っていました。知れと自分で思うのですが、そもそもTVに出て社会問題をヤイノヤイノしてお金を取る職業に疑問を持っているのです。ものすごい先駆者や専門職でなくとも、いろいろな問題にクビを突っ込みたがる人々に敬意は持てません。無責任な言葉を撒き散らしているように思えてしまうのです。が、このふたりがそうだった、と言及しているわけではなく、ああいった体質を持つ番組全般に興味が持ちにくく、出演者を記憶にとどめたくない制御装置がついている、という具合です。

そもそも、人間の子どもを言って聞かせる時間を持たず、どうして体罰賛成ができるのか・・・。まずはそこが理解しかねます。戸塚ヨットスクールには、誘拐まがいで自分の子どもを入れた親がいましたし、命令としてスクールに入ることを告げた親がいました。数人の中には「電話も禁止だし、どうして親がここに自分を入れたのか聞いてみてほしい」と取材陣に頼む子もいました。「自分はここでどうにか変化していくかもしれないけれど、俺と親の関係はなんら変わらない」ときつい真実を告げるしっかりしたモノの見方をしている子もいました。年間、500万近いお金を支払い、子育てを放棄した形にする以前に、どういうボタンの掛け違いがあったのでしょうか・・・。しかも、自分と自分の子どもに起きたその掛け違いを、きちんと把握し整理しても、なおまだ他人に子どもを預けてしまうのはなぜなのでしょう・・・。託児所とは違うよね・・・。ということは、破綻寸前までになっており、把握しようにもできていない、整理しきれない、ということです。

根本的な問題解決をどうして癖にしないのか、ここのところは体罰や教育や整形手術や健康保険や生命保険や海外旅行や家のローン以前の問題です(いろいろ関係ないように見えることを並べましたが、やはり優先順位としては関係あります)。もしも、問題を根本的に解決する能力やスキルが高められていれば、体罰も必要ないことでしょうよ・・・。

  • いくら言っても言うことを聞かない
  • 他人の痛みを痛みとして理解させる
  • 愛があるがゆえに振るう拳も痛いが体罰を使う
  • 身体で覚えさせる

などなど、正当に見える理由を並べていますが、すべて論破できちゃいます。

言い方が悪いんでしょ。何度も何度も同じことを言って効果を半減させていたり、自分の感情やムードを子どもに押し付けてないのか?ぜひ伺いたい。具体的な例をしっかりわかるように使っているのか、実験まがいのことをするくらいの熱意があるのか、などなど、本当に『言う』はさまざまですし、可能性は無限です。

他人の痛みを共感できないような土壌を最初から作ることには反対です。ヒトとして生まれたものの、ヒトの中にも誤差はあり、痛みの度合いは人によって違います。しかも、その場面や質、登場人物などによりさらに差は開いていきます。それを考慮しない痛みは痛みとしての解析がなされていない状態です。他人の痛みをわかっている人間が、「私の痛みを理解しろ」「○×さんの痛みを理解しろ」などと押し付けがましいことを言うものなのでしょうか?むしろ、「少しの痛みならば超えられる人間になってほしい」と自分の人生を切り開く姿を、親とは言えども第三者として信頼して見守ることしかできないことはわからないのでしょうか?謎です。

昨日書いた小我から来る自分を正当化したり大きく見せたりするための愛ならば、そんなものは愛ではなく押し付けです。純粋な感情抜きの暴力・体罰を私は見たことがありません。勢いや流れが感情といっしょくたになり、後付する理由をいかに美化しているかということです。少し冷静になったときの「俺も悪かった」という父の顔は私には焼きついています。愛という名の下に愚行を重ねる大人は、子どもたちにもそれをしていいのだ、と許可していることになるのです>モデリング。

身体で痛みを覚えたあとどう使う?足の小指をタイルや暖炉のレンガの角に何度かぶつけても、私はやはりやるときはやります。が、いつも新鮮に痛い。が、痛みに対してかなり許容度が高い私は、モノの数分後に忘れてしまっている。シャワーを浴びて自分のアザに驚く、という新鮮な日々です。落ち着きがないのか?だったら、痛みとして覚えるのではなく、行動修正をしたほうが有効でしょう。殴られてもいくつものことを同時にやろうとする営みを変えることはできません。掃除をするのがイヤなのは今も同じですが、自分を律してやるようにしています。殴られたからやっていたわけではありません。パブロフのわんちゃんと同じ法則はヒトには使えますが、自分の子ども、未来の日本を託す子どもたちをロボット化したいのか?自分で考えて最良の道を選べる心と頭を持ってほしくないのかね・・・。

「理想は体罰などないほうがいいに決まっているが、必要なときもある」という意見もありますが、必要なときについて整理して考えた結果が、私の場合は「自分や他人の生命や健康の危機」なわけです。たとえば、空手や剣道やボクシングなどを習っていたりする子どもたちは、身体そのものが凶器と化していくわけです。それについての自律は厳しいものになります。が、何でもかんでも体罰とするのがいいわけがない。禁止されている難易度が高すぎる危ない型を誰かに使ったときだけ、その場でしっかり空手なら空手、剣道なら剣道、ボクシングならボクシングの技を使って見せることが有効です。挨拶をしなかったから、何度言っても聞かないから、まったく改善されないから、と殴る・蹴る・ビンタをかます、など、やりすぎの暴力はまったく有効ではなく、パワーゲームの最も簡単な形です。そして、受けた子どもたちはそれを正当化し、次世代へと引き継いで行く。いいのか?私はそんなのイヤですね。

せっかくの脳と心、使わずにどうして暴力なの・・・・。しかも姑息でしょ、正当化するなんて。子どもが欲しがっている愛情をエサにするなんて・・・。暴力を振るえることが人間の器量ではありません。他人のことを芯から考えているのであれば、簡単すぎる体罰など使うわけがないでしょう。身体に残る傷よりも、子どもであっても持ちえる人としての尊厳や品位を奪うことで、その個人をコントロールしようとするのは、姑息な手段です。そういう意味で、戸塚ヨットスクールの存在意義そのものに、私は変わらず疑問を持ち続けています。