10/08/2006 にアップした文章です。

 

集団行動は向かない。小学校の運動会でやったマスダンスもまったくダメで、練習のときからやる気はさらさらなかった。なんだかとても滑稽だったのです。何歳くらいから開始したのかは不明なのですが、自分の他に自分を見ているもうひとりの自分が居り、その観察者がダメだと思うことはしたくない、という基準がいつの間にか出来上がり、それは相変わらず今日でも続いています。最悪だったのが、小学校5年のときの花笠音頭。体操着を着たままで、ただの花笠を被ってどうしてあんなもんがきれいだと思うのか・・・。不思議でなりませんでした。どういう意義があったのか、今もよくわかりません。日本の古典芸能の伝承という意味があれば、盆踊りや鑑賞会、学芸会での催しのほうがずっと衣装や準備や学習にも精が出たはずです。運動会は運動だぜ、と冷たく思う観察者は、その花笠音頭をハナからカウントしていないようなところがありました。

美的感覚というのはいつ頃から形成が始まり、いつ頃ある程度固定化されるのか、個人差のほうが大きいと思うのですが、私の場合はこの観察者が居て、かなりピッキーな子どもであったことは確かです。その中でも、観察者が嫌ったものが団体行動でした。

団体行動は、子どもであるがゆえに、身体の筋肉やリズムのコーディネーションがうまく行かないがため、私の観察者の美的感覚を著しく損なうのです。私はどうであったか?運動神経がよかったせいで、おそらくこのような酷評をする観察者を持つことになったのではないかと思うのです。今となれば、オマヌケさやミスコーディネーションを微笑ましく、心のツボに嵌まるポジティブな出来事として見ることができるのに、その当時は成長途上にあったためなのか、早く大人になりたかったのか、団体行動がもたらす滑稽で悪趣味で揃わない不恰好さに対して、とてつもなく狭量でした。

運動会のマスダンスだけではなく、集団下校・遠足・社会化見学・部活動での校外移動、もう何もかもイヤでした。苦手だったのです。

今思うに、心が北朝鮮だったのかもしれません(爆)。この表現は「きちっとぱりっと揃うのが美で、乱れていることがとても我慢ならない」という端的なことを指しています。以前書いたように、私は子どもの頃、父の影響だったのか、先天的にそもそも何か持っていたのか、OCD(Obsessive-Compulsive Disorder;強迫観念症)の傾向が強かったのだと思います。靴下や靴を履くにも、どうしても左足からでないとやり直したり、街路を歩いていても線を踏むことが許せなかったり、お茶碗とお味噌汁碗の位置が逆になっただけで食事を摂ろうとしなかったり、鉛筆が折れてしまっただけで先生の話が聞けなくなったりしました。以前書いたように父の影響があります。父は私などに比べ物にならぬほどの、OCD症状が出ている人でした。タバコとライターと灰皿の位置や、楊枝をさらにそこに日用品としてパッケージにすること。靴を玄関に並べる順番や着替えの順番。配膳の位置や掃除の手順。彼にかかるとすべてのことが「儀式」になりました。いつも自分の思い通りにいかぬ、妻や子どもたちを家庭で見て、職場では大の男たちに腹を立てイライラし、ガンまっしぐらだったのではないかと思うのです。自分のために少しずつ緩やかにしていったものの、彼のOCD症状は死ぬまで続きました。

そんなこともあり、私はMonkにこだわっているのだろうと思います。当然、彼の天才さ加減に魅惑されている、ということも大きいのですが・・・。

子どもの頃はブリタニカ百科事典を弟と共有していたのですが、弟は第6巻の「動物・植物」ばかりを多用する。手垢がつくし、ページは折れるし、それがどうしてもイヤで、「他のやつも同じように順番に見たほうがいいよ」から始まり、いろいろな働きかけをします。不思議なもので、弟にいろいろな知識をつけてもらいたかったわけではないのです(爆)。ただ、第6巻だけがヘタれることがイヤだったのです・・・。私の美的感覚でした。

いやー、今考えても私は生粋に身勝手だったわ、人生の最初の頃・・・。

弟とふたり、家族4人でもうまく行かない団体行動に、さらにこれに叔父や叔母や祖母などを入れた団体行動をうまく行かせることができないというのに、小学校一クラス全部、学年全部、学校全体行事、などなどに、私が水を得た魚のように生き生きと振舞えるわけがなかったのです。

でもなぁ、家ではダメでも、やたらとイベントや団体行動好きな人はいるよね・・・。まるで風景になることが大好きだったり、逆にイニシアチブを取ることで張り切ったりする人はいる・・・。うーむ

特に、アジア特有のものではないのですが、偏りが見られることに文化的意味の主義があり、それが、全体主義と個人主義であることはすでに何度か書きました(『いわしの学校』から始まっていろいろなところで触れています)。アメリカの学生は、個人主義に大いに偏っています。年齢も場所柄も学校の校風もあるのですが、私の通った大学は『いちご白書』があったところなので、かなりリベラルだとされています。私が生まれた翌年には、John F. Kennedyが訪問し、人々のヒッピー文化は絶好調になり、クロサワの映画を見たことが無い学生は「かっこ悪い」ことになります。そこでのリサーチでは、個人主義文化を持つ彼らの行動には、ほんのわずかしか全体主義文化的行動がないわけです。

わずかな中のひとつが、席順。コレ不思議です。毎週2・3度の講義で、黒板(教授が立つところ)を中心にいろいろな統計を取っています。金曜日の午後に出た「市民カレッジ」で、明治大学商学部の教授も同じことを言っていたのですが、コレは心理学のリサーチの範囲だ(爆)。自由な座席配置であるにも関わらず、この席順だけは、なぜか時間が経つにつれ固定してきます。アメリカでも同様なのです。

コレはなぜなのか?動機という大きなファクターがあります。先生のそばで情報が漏れることのないようにしたい、学業をしっかり身につけたい人々は前に位置するのでした。コレは文化的なことではなく、個人の動機で、「屯(たむろ)する」「恥ずかしいから当てられないように後ろに行く」「目立たないようにする」などには、実際はあまり深い関連性はありません。まだこのようなことを考えて席を選ぶ生徒は、学生としてのエキスパートではない模様・・・。

私もしっかり最前列から3番目までで、なるべく中央寄りに座ることにしていました。視聴覚に断然有利ですし、漏れの少ない情報を得られますしね♪これだけを取ると、私も団体行動の中に見事に溶け込んでいたように見えるのですが、実際は違います。

人への思いやりで発する行動の中での規律や秩序はたいへんに美しいと想いつつも、やはり自分の美観を損なうことは否めません。たとえば、朝の通勤電車の配列・・・。見た目は美しいし、人への配慮がなされていると感心しつつも、自分があそこに並ぶことは到底想像できません。高校生のときにも遅刻しそうなとき以外は、混んでいない各駅停車で読書をしながら通ったし、今もラッシュアワーは避けて行動します。新しいお店がオープンしたとしても、並んでまで行きたいとは思えませんし、流行しているものに心傾けることは、私の美観に沿わないのです。

でもねぇ、満場一致でOCD症状のある人が満足するようなきっちりとした揃いができる団体など、そこらじゅうにあるわけもないよねぇ。そういう意味で、北朝鮮のマス集会などは見ていてすごいなぁ、と思うのです・・・。思想はまったく別のところにありますが、人々をああして突き動かす動機について考えさせられてしまうことも確かです。

そしてつくづく団体行動は苦手だなぁ、とまだまだ考えているわけでした・・・。