10/15/2006 にアップした文章です

 

人間というのは悲しいもので、なぜかこの「美人・きれい・かわいい・かっこいい」にやたらと振り回されている・・・。どこに行っても思うのよ、つくづく・・・。当人である私はまったく振り回されていないか?というと、やはりどこかで振り回されそうになっており、そこでブレーキを踏んでいる状態なわけです。それが、生まれ持ったものと後天的な違いをさらに考えさせられるいい材料になっており、心理学を学んだ者としては、楽しい軸であったりもするので、観察はずっと続いていくことになります。

私は生まれながらにして、恵まれた方の50%に属したと感謝しています。まず、特筆すべきは;歯並びがすごくいい。何の矯正もせずとも、これほど見事な歯並びはめったにないよ、と言われるほどに歯並びがいいのです。父には鬼歯があり、母の歯並びもそれほどよくはない・・・。弟の歯もでっかいのや小さいのが混ざっており、歯並びそのものはそれほど悪くなくとも、見たところ不ぞろいです。が、私だけがやたらと恵まれており、この1点だけでもかなりの感謝。さとみちゃんは、100万あったら矯正したいそうですもん。うーん、さとみちゃんの歯並びもパーフェクトではないにしろ、それほど歪んでいるわけでもないし、気になるほどでもないのだけれども・・・。

ちなみに歯並びだけではなく、親不知(おやしらず;Wisdom Teeth)がレントゲン上にも写らず、存在していないというのが自慢でもあります(爆)。アメリカの統計ですが、全人口の3%ほどの人間しか4本全部が「存在しない」という人は、私の年代ではいないそうです。現在までに少しずつ増えているらしいですが、それでも10%などにはほど遠い数字らしいです。そのせいで、歯並びがよく、頭の部分の余白ができたので脳も大きくなる可能性がある、と言われたことに、やたらと歓んでいます(爆)。

目も生まれたときからしっかりした二重ですし、眉毛も濃い。口も大きくもなく、小さすぎたり、唇が厚すぎず薄かったりもしません。小鼻が自分としては多少大きめな気がするのですが、他人はそれほど指摘しないようです。ほくろが多いことは、難ですが、会話としては弾むし、占い師も「あら、逆の相が出ちゃうよね、このほくろとコレ」などというくらいで、けっこう楽しめます。というわけで、私は自分が「不美人・ブス」といじましく隠れた記憶はないのです。

それについて、西さんは「陽の当たる道ばかり歩いてきたきくみにはわからないことがたくさんある」と、出会ったばかりの頃には再三言っていました。でもねぇ、それはギブ&テイクなのよ・・・。どうでもいい人にまで興味を持たれ、迷惑だとはっきり言っているにも拘わらず「イヤよイヤよも好きのうち」と数える人々も居り、やはり人が群がることにもマイナス点は必ずあります。それが心や頭ではなく、顔や容姿だったりしたときの落胆・・・。西さんも今はわかってくれているのですが、これは「贅沢な悩み」なのだそうです。私はそうは思わないのです。10代のあの混沌として苦しかった中、自分に対峙する時間がいくらあっても足りなかった中、どうでもいい人々のために莫大な心のカケラを持っていかれた時間は、累積するとものすごい時間になると思うのです。

そしていつしか、コンタクトレンズを多用しなくなり、メガネを平然とかけて街中に出るようになりました。私は先天的に近視になる家系にはなく、私だけがアクシデントのように中学1年から近視になり、それは暗い中での読書が原因、と眼科で言われたのですが、生活を変える気はさらさらありませんでした。まるで勉強をしたから目が悪いように思われがちですが、そもそもはただ、江戸川乱歩や伝記や絵本のせいです。それが証拠に私の近視はそれほど度が進んでいません。0.08くらいはありますから。30歳過ぎて大学に戻っても、暗がりの中で本を読み続けても、コレしか進んでいません。ドラマチックな強度の近視の方々の中には、起きた瞬間からメガネを掛けねば生活ができない方々もいらっしゃいますが、私は裸眼で顔も洗えるし、歯も磨けます。

あ、近視度ではなくてメガネだった・・・。「女のメガネは3割安」と言われた時代に育ったのですが、それならばそれで、わざと3割安にする場面に使おうと思ってきました。折り目の正しい制服のシャツを着て、プリーツの利いたスカートを履き、校則通りに髪を整え、制服フェチではないとしても、人々からの注目を集めないため、特に痴漢からの注目を集めないようにするには、メガネはとても効率がよかったのです。私は電車の痴漢避けに、コンパスまで用いたクチですので、痴漢への生理的嫌悪感はご理解いただけるかと思います。メガネくらいで実害が減るのであれば、歓んでやりました。痴漢行為にも強弱があるにせよ、アレはアレでトラウマよ・・・。

みな、けっこうこぎれいにして街を歩いていますが、その動機についていつも私は不思議に思っているのです。仕事であれば好かれたほうがいい。好感がなければまとまる話もまとまらない・・・。が、私はプライベートな時間にこぎれいにする必要性などゼロだと思っている傾向があります(爆)。既知の人々であれば、清潔にさえしていれば、特にきれいにするこたぁないよね、と思っているところがあり、アピールするほどの容姿や美にしか気づけない相手だったらおつきあいもしたかないかもな、とすら思っている・・・。

それが証拠に、私が「いいな」と思う男女は、こぎれいにしていない人々のほうが多い。もちろん衛生感をクリアしなければダメですが、それさえあれば、容姿はかなりどうでもいい。鑑賞用としての見方(ほら、モデルとか芸能人とかいろいろ・・・)と人間の実体を見るのは別でしょ・・・。「どうせならきれいなものに囲まれていたいわ」という人々がいるのも知っていますが、そんなのってマスクだよな、とシニカルなところがあるのです。年を取れば、老人性しみもできるし、髪も細くなったり薄くなったりするし、どこかしら持病ちっくな傾向も出る。それを隠してきれいにすることに、どれくらいの意味があるのか、私にはあまり意義が見出せないでいます。コレは自分がいい大人になったからではなく、子どもの頃から同じです。ほら、家の中は一見きれいでも、引き出しはぐちゃぐちゃ、見えないところに押し込むみたいなきれいさならば、実を伴わないでしょ。あんな気がしてしまうのです。

私も時と場所とメンツにより、こぎれいにすることはあります。なので、年に3回くらいはお化粧もしますし、カクテルドレスやきれいなドレスやハイヒールを履くこともあります。が、それは場と質の要求がなければ、極力避けたいことです。

そこに燦然と輝くきれい、に魅惑されるのは、どうもビギナーちっくなものから抜けきれていないバカモノなのではないか?とやはり思ってしまうのです。きれい・かわいい・かっこいい人々は、スウェットを着ていてもきれいだしかわいいしかっこいい。

なぜこんなことを想ったかというと、パチンコやさんでも鏡を入念に見る女性をトイレで見かけたり、デパートのガラスに映る自分の姿を気にしている人々をよく見るからなのです。私は、運転免許の写真の写りも気にしないやつで、「どうせおまわりさんが見るだけよ、サービスするこたぁないわ」という性格なので、街中でも自分がチェックするのは、身だしなみ程度のこと。整えるのときれいにするのとのラインはどこにあるのかなぁ、と不思議に思ったのです。

私は西さんに容姿を好かれたわけではなく、この心と脳と長年培ってきた顔の表情を好いてもらっていると自負しています。そうでなければいっしょにいる意味はないです。ぼろを着てても心は錦を実践できる人だと信じているからこそ、安定を捨てても旅の伴としていっしょにやっていける。私も西さんを好きなのは容姿などではおそらくありません。多少は振り回されている部分があるにしろ、メインはそこではないし、そこに導入があったとは想いたくないですね。いつも見た目にブレーキを掛ける意識があることを願っています。