10/16/2006にアップした文章です

 

さとみちゃんが突然、セミナーの最中に「きくみさん、私猫村さんの絵描けますよ」と・・・。びっくら・・・。うぉぉ、絵心があるとそんなことができるんだなぁ、と改めて、4歳の子どものように感心してしまった・・・。恥ずかしいくらい初歩的なことである(爆)。

絵心がないことを弟一家と食事をしたときにも話したのだけれども、弟の幼い頃の記憶によると、やはり私は「絶望的に」絵心がなかったようである(爆)。弟の言葉ではあるのだけれども、彼の記憶力もかなりよいので、私としては絵心への自信のなさに拍車を掛けていただいた結果となり、たいへんにまたもや落ち込むのであった・・・。

ハワイの親友がアクリル画を習い始めたのがおよそ2年前。それを見たのがつい1年前くらいのことで、たいへんに感動した私は、自分も意を決して始めたいな、という入り口付近までは、気持ちを持って行けたものの、行動に移せておらず・・・。

父親がOCD(Obsessive-Compulsive Disorder)ぎみだったことには何度も触れています。そのせいなのか、彼は私の図画・工作、美術の宿題を私から取り上げてしまった、という経緯があることにも小出しで触れました。そもそもの発端は、ぬり絵です。最近、大人のぬり絵が流行しているようですが、私がそんなものに手を出せないのは、「トラウマ」と呼ぶほど大きなものではありません。心の傷になどはなっておらず、生命の危機など感じたこともないので、トラウマではないのです。が、鬼門くらいにはなっており、積極的なポジティブな気分になれないことは確か・・・・。

幼稚園に通っていた頃に、ぬり絵を持っていたのですが、8色だったか12色だったかの色鉛筆(なぜかペンテル:当時はアレしかなかったのかなぁ)で、せっせと練習をしていたのです。OCDぎみの父親は、私がとんでもない色を使うとむっとし、肌の色がオレンジではおかしい、だの、靴が緑だとバランスが合わない、だのといろいろ文句をつけたのが最初のケチでした。母としても「色バランス」も身につけるのがぬり絵の醍醐味だと思ったのでしょうし、当時は「独創的」であるよりは「平均値にせめて達してほしい」が願いだったので、父と意見を同じくし、私のぬり絵のカラーリングは致命的に「現実味」のみをフォローすることになりました。花々の茎や葉は必ず緑か黄緑。空は青。太陽はオレンジか黄色。女の子の洋服の色は女の子色で、男の子の洋服は男の子色。そうなんですよ・・・・。このときにすでに「やる気」は相当失せていたわけです。

そして、ぬり絵の技術。父としてはまーったく悪気があったわけではありません。が、まずは色鉛筆を削るところから始まるのです。「道具を粗末にする人間はロクなもんにならない」というのが彼の口癖で、ハイヤーの運転手だった父親の車を、私も休日にわざわざ何度も洗車した記憶が残っています。色鉛筆は弟が小学校に上がる準備を開始した2年の終わりまでは、ナイフで削っていました。新聞紙をきれいに敷いて、その上で削るわけです。その後、それを始末し、色鉛筆をおごそかに並べ、それからぬり絵は始まるわけです。4歳から6歳くらいまでのあいだ、もうこの儀式がとてつもなく嫌いでたまらなかった・・・・。こんな大げさなことは遊びではない!と子ども心に感じていたわけです。

そして、ぬり絵をするのには、まず尖がった色鉛筆で縁取りをし(下絵になっている絵の線をなぞる)、いったん、鉛筆の重圧を掛けておいてからはみ出ないようにするのだと諭され、その線をしっかりなぞれないことだけで、いったい何ダースくらい怒られたことでしょう・・・。もちろん塗り始めてからもはみ出しちゃうし、塗っている色ムラも出てきてしまいます。

もうね、私にとっては当時のぬり絵は、座禅くらい厳しいものだったのですよ・・・・。当然、ぬり絵ごときができない私は(父によると「きくみはぬり絵もまともにできない」ということになっていた)、絵心に対して恐怖を抱くようになります。犬を描いても猫に見え、猫を描いてもトラかキツネに見え、鳥を描いても何なのだか正体不明となるわけです(爆)。人間を書き始めた当時も、頭が○で、身体は三角に描いていたのですが、それだと猛烈に怒られるわけです。「こんな人間いるわけない!」と。「立って鏡をよく見てきてごらん」と言われてしまい、事実を認めなければならず、どうやって描いたらいいものか、小さく技量がない私は途方に暮れたのでした。

そうして、一切の美術活動を父親の前でしなくなり、母の前でもしなくなります。せいぜい、遊びを蝋石で描いたり、土や砂に枝や手で線を引っ張ったり程度、に押し留められることになりました。拷問とまでいかずとも、とにかくあっさりときっぱりと「イヤ」で、耐えることなどしたくもなかったのです。当時、絵心が将来必要になるとはまったく考える頭はありませんでした・・・。やっぱり甘いよなぁ・・・・。

そして、写生会や図画工作の時間は、遊びの時間と化していきます。あの当時、絵の具を最初に使えるようになっても、色目を混ぜていろいろな色を作るヨロコビを得なかったことで、「固定した色感覚」を表面的に持つ、たいへんに保守的な人間になる路線を歩いたのだろうなぁ、と思うのです。小学校3年のときに、9月1日防災の日ののち、調布市のはしご車・消防車・救急車を写生する会が催されたのですが、当然、私は下書き・下絵の段階でその日を終えました。やる気はまったくなく、期限に出せなかったら出せないでいいや、くらいのことを考えていたわけです。ところが・・・。家に帰ると父親が手出しをし、ほぼ8割を彼が手がけてしまったのでした。それが、彼が私の図画・工作、美術の宿題を始めたきっかけとなります。しかもさ・・・、その消防車を描いた作品は、市長賞の佳作となり、父は「不正」に対して反省するどころか、小学校レベルの絵心の中で佳作を獲ったことに歓んでしまったのでした(爆)。その後、彫刻や彫塑、絵、木工などなど、彼の作品は私のものとして学校に提出されていくことになります。

弟は中学校2年のときの課題である、水芭蕉を掘った木版をよーく憶えており、「罪悪感ないんだよね・・・」と言われて笑ってしまいました(爆)。

まぁ、家庭科も母親が同じようにしてやっていたんですが・・・・(汗)。当然、彼女にも罪悪感なんてないんですが・・・。

そして現在、ボトルキープすると必ずネコの顔を描くのですが、その絵は小学校3年のスキル止まりになっています。キリンとネコくらいしか他人に認知してもらえず、花もひまわりとチューリップしか認知してもらえません(爆)。描く樹木には種類など到底醸し出せるわけもなく、車も自分ではヘッドライトやテールランプで差をつけているつもりですが、他人に認知はしてもらえません。

ちょっと試しに『きょうの猫村さん』の猫村ねこさんを描いてみたのですが、まったく似ていなかった(爆)。さとみちゃんがどれくらい描けるのか、じっくり見せてもらうことにします>市の無料カレッジ講座があと1回あるので、そのときの内職ね(爆)。

さて、いつになったらこの鬼門は開かれるのか。あるいは生涯、絵心などないまま過ごすのか・・・。見るのは大好きなんだけどねぇ・・・・・・・・。