10/25/2006にアップした文章です。

 

私は○×の専門、と言えるほどの専門がありません。母などは、未だに私がパイロットのライセンスを持っていることや、大学を卒業したことや、そこで心理学を修学したことなど信じておらず、私が言うことは、自分の意見と大差ない、と思っているところがあります。TVでの意見などに左右され、私が違うことを言うと「TVのほうが正しい」などと思うことが多くあるようで、あまりに頭に来たので、ネットで証拠を見せることもしばしばです(爆)。

私の中では、「けなげな庶民」の代表は母で、彼女は中学も実はまともに卒業していません。が、自分の机には、あらゆる書き物のメモや、ノートがきちんと整理されています。字をまともに書くために、レシピや健康に関する情報などなどを書き付け、漢字や算数のドリルまでやるのです。西さんと私とさとみちゃんでExcelをじーっと見ていろいろ言い合っていると、「やっぱりすごいねぇ」などと漏らすので、そういうときには少しくらいは私の受けてきた教育を信じてくれているのかもしれません。

私は子どもの頃から、そんな母を恥ずかしくないと思ってきたわけではなく、小学校3年くらいまでは家にお友だちを呼ぶこともなければ、母には学校に来てほしくなかったものです。物心ついた3歳くらいから8歳くらいまで、私は5年ほど母を邪険にしたかもしれません。が、その後、今でも、彼女ができることはやってもらうため、どこにでも連れていきますし、どこにでも電話もしてもらいますし、どこにでも行ってもらいます。アメリカにも何度も呼びましたし、アルファベットの練習もしてもらい、毎回パスポートもきちんと取得してもらっています。最終チェックはしますが、自分の保険や年金の計算などもしてもらっています。彼女が彼女でいること、コレがイチバン大切。

が、弱いのよ・・・、専門家の意見に(爆)(爆)。

専門家:ある技芸や学問などの専門的方面で、高度の知識、またすぐれた技能を備えた人。

どこのところから「高度の知識」「すぐれた技能」というところから、庶民の代表である母にはわからないのです。日本のTVを見ていて本当に実感するのですが、「どこが専門家なんじゃい!」とダウトな人々は適当にかわして意見を言い、かなり高額のギャラをもらっています。講演会などもそうなのでしょう。今回戻ってきてから、まだ一度も講演会に行っていないのですが、無料のがあれば行きたいと思っています←証拠集めなんかい(爆)。

私が世間をくそ舐めているのかどうか、ここのところは受け止める人のそれぞれの感性や世界観なのだと思います。が、「高度の知識」はもうネットがあるのだから、誰にでも拾える。昔であれば、図書館通いをせっせとして、気の遠くなる時間を使ったものですが、検索機能がどんどん進化したので、現在のシステムでもアーカイブになっている便利なものもあり、多少の会費や一度の閲覧料金を払えば、専門的な高度な情報も手に入ります。「備える」というのは眉唾もので、すべての細かい情報を頭の中にしっかり入れている人々は少ないはず。私も今まで習ってきたことをすべて記憶しているわけではありません。Free Associationでたまに思い出すことがあっても、アミノ酸の名前や脳の部位など、やはり資料を見なければ思い出せないことは数々あります。ましてやそれが英語で頭に入っているので、日本語に直すのにまた調べ直すこともしばしばあり・・・。

では、本当の「専門家」たる使命は何なのか?高度な知識を理解しきるには、基礎からの積み重ねが大切です。その積み重ねをしっかり順序立て、その因果関係や関連性などを明示できる能力があることです。しかも、専門家サークルの中で、肘掛け椅子に座り、パイプやタバコをくゆらせて語るだけではダメなのよ・・・。庶民の代表のような母がわかるように説明できなければ、専門家でも何でもないでしょ・・・。そのために、チョモランマの頂上にあるかのようなすごい高度の知識に登りつめたはずで、カトマンズの入り口でポーターを雇ったり、器具を常備したり、健康チェックをしたり、要員を揃えたりできるのが、専門家が専門家たるゆえんです。いっしょに登ってもいっしょに登った人々の世話ができないのであれば、それはTVに出てクダクダ解説する身分になく、頂上近辺の人々といっしょに研究室に閉じこもっていればいいと思うわけです。で、「応用」という形で、社会にその知識の富を反映させていけばよい。現にそういう人々はたくさんいます。エンジニアなどがそうです。誰がSonyや携帯やその他のすごい発明をした人々がTVで自慢しているところを見てきたというのでしょうか?

私が「すぐれた技能」というので思い出してしまうのは、『大食いチャンピオン』で(爆)、先天的な傾向の割合が多いにしろ、あれを勝ち抜くには人並みならぬ作戦や訓練が必要だと思うのです。猫舌だったらアレ生き残れないってば・・・。それを克服した人がいたのでびっくらしたのよ・・・。あとは、あのTV東京でたまにやる、「文具の選り分け」だとか「音の聞き分け」だとかすごいでしょ。あれ、技能です。いやー、ご立派♪

私にはそういった技能はなく、平々凡々たるタイプや読書の速さや、飲酒量が多いだとか、その程度のことしかない。しかも、平均値を上回っているだけで、Σ+3以上と誇れない。けれども、まったく卑下しているわけではなく、私は自分が自分であることにたいへん倖せを感じています。

でも、学問になるとなぜか技能もすごい評価になります。日本で現在最も外科医として有名な人は誰か?と尋ねられても、95%の人は答えられないことでしょう。なので、「外科医の最高峰」とTVが紹介してしまえば、なぜか信じてしまう・・・。美容整形も同じだし、ファッションなどは特にグレイエリアが多すぎる。どこが専門家なのか?と疑問だらけです。

All-rounded(すべての分野においてある程度の知識や技能を取得している状態)が大切だと、私は何度か書いてきました。なぜならば、こうした「専門家」に騙されないようになるからです。うーん、騙そうと思っているわけじゃないんだけれども、世論を動かしたり、影響力があることは確か。あるひとつの分野のあるひとつの高度な知識は、実際問題、すべての人々のすべての倖せのためを網羅しているわけではないのです。たとえば、核兵器。アインシュタインは己の発見にたいへん嬉々としたはずです(相対性理論を発見したときのほうがうれしかったそうですが)。が、その危険性を知っていても発表してしまい、それがああした形でたくさんの人々の不幸へと繋がりました。彼は死ぬまで、自分の死後のことも考えた挙句、遺志を継いでもらえるよう、財団に恃みこの世を去ります。私は個人的にアインシュタインのおどけたところや、感情の表現全般、人とのつながり方など、かなり好きですが、彼の苦悩も理解したいと思っていますが、結果論としてみれば、彼は万能でもなかったがためにこうした悲劇は、史実として残ります。神ではないのだから当然ですが・・・。

なので、自分の周りに起きるすべての物事を把握し、少なくとも理解したいレベルまで理解するためには、All-roundedを目指すことに損はありません。どこまでが「ある程度」なのかは自分が設定すればいいことです。が、○×バカということを誇りにしているようでは、やはりエゴいだけです。自慢してどうなるの?と私はいつも感じています(だってぇ、よくいるんだもーん)。少なくとも、自称専門家の意見に惑わされてはなりませぬ。それはあなたの意見ではなく、他人の意見。自分に取り入れたあと、自分の意見を打ち出せるようになってみましょ。