10/31/2006 にアップした文章です。

 

なんだかすごいことになっていますなぁ・・・。当人である高校生たちとその親にしてみれば、「学校から丸ごと詐欺に遭ったような気分」なのではないかと想像します。ちょっとありえないほどの、情けない日本の教育の現状です。まだ文部省だった頃、私はAOLの「教育を考えるスクエア」というコミュニティのチャットにお邪魔しており、日本の教育を憂える限られたメンツと明け方近くまでチャットをしたものです>私は時差のせいで、アメリカの朝から午前中、という程度だったんですが・・・。

自分のことをつらつら考えていました。私は滑り止めの私立女子高校に通ったのですが、進学コースを希望する1年の頃には、地理・日本史・世界史・倫理社会の4つを入り混じりつつのコースだったのが社会科でした。そこでは、世界史と日本史はAとBで分かれており、進学コースを選んだ人がBをさらに履修することになっていました。私は、どうもカタカナの人名と地名にアレルギーがあり、2年からは日本史を取り、それをそのまま受験科目にしました。

やはり一言で言えば、「学歴による能力判別の格差社会」へと猛突進している余波が出てきたということなのでしょうね。生徒たちの意識としても、特に私立高校での科目による時間配分やエネルギー配分に洗脳されており、「受験科目であるかどうか」が大きな軸になっているようです。特に理系の受験生たちにとって、社会科に配分せねばならぬ時間は「無駄」という観念が蔓延しているようです。いや、ニュースはそういう意見だけを拾うのか?認識や意識として、この体制・態度に対しての憤りや不公平感が植え付けられない流れになっており、分業化・スペシャリスト作りがさらに広がっていることへの危惧があります。

なぜ、スペシャリストばかりになっては困るのか?私がAll-roundedな人間であることを目指したほうがいい、というのはエッセイで何度か触れてきました。社会全体になると、それは深刻化するからです。身近なレベルでは、「詐欺や誇大広告への免疫」が低くなる。自分の専門知識しか分析できなければ当然そうなります。そうなると、自分の知識のあることに関しては大いに語り、ないことには耳を傾けることがなかなかできなくなる。興味が持てる・持てないの境目は、対象物に対しての好奇心です。子どもの動物や気候や星座、伝記やニュースでの人々の振舞いや生き方、などなどに対する興味を見ればはっきりしています。この世にあるものは、多数で未知数に満ちており、物理的にすべてをこなすのはなかなか難しい。どのくらい深くやれば納得がいくのかも個人差があります。が、私が推奨しているのは、「調べ物ができるくらい」「のちのち考えれば深くまで理解することができる基礎知識」くらいは身につけておこうよ、ということです。でなければ、なぜ西海岸に行く飛行機の行きと帰りの時間が違うのかも、まったく不思議に思えない人間が増える。言語にはなぜ方言ができるのかがわからず、方言を使う人間に対しての理解が浸透しない。無知識や無理解は、歪んだ社会を作り、格差を確実に作っていきます。個人の中でも、日々それが蓄積していくと、「自分と違う考えの意見」を聴けなくなるわけです。夫婦であろうが、親子であろうが、友人であろうが、どんどんその距離は遠のいていくことになります。

あることに長けていても、他のことではまったく用をなさないのであれば、機械で言えばやはり歯車でしかない人間になり、「使いまわし」「取替え」が利いてしまう人間が増えるということです。終身雇用制が崩壊し、能力選り分けが進むと、「敗者復活戦」のチャンスも目減りします。一度失敗したら、誰でもホームレスになる可能性を秘めることになるわけです。役所などは、生活保護の申請書ですら簡単に配ってくれません。餓死者や自殺者まで出す始末ですし、ホームレス対策は進んでいるようには見えません。食べ物などの生活必需品にまで、消費税をかけるえげつなさです。ちなみにアメリカは食べ物には消費税はかかりません。缶ジュースなどの缶には、回収費用がかかります。レストランで食べなければ、食べ物そのものに税金はかからないことになります。

技能がいくつかある人間のみが重用され、実際ははっきり主張を通しているように見えるだけのYes-manが便利な存在となります。イメージは「自分の考えをしっかり持っている」「物事を見る目がある」ように見えつつも、実際のところは、さらに頭がよい、資金力のある、情報収集力のある、他人の意見をしっかり聞ける、コネクションのある、経営者の器であるAll-roundedな人間は彼らを御しやすいのです。ここで、使われる側と使う側がどんどん差別化してくることになります。

知識や技能の専門化は、生きていくうえに必要なすべての分野の基礎力がついたあとに行われなければなりません。私が今考えているのは、中学や高校生レベルで、「クレジットカードや借金や利子」についての仕組みをしっかり授業中にやったほうがいいというもの。自己破産が増えることや、マテリアリズムが減ることに貢献できます。親がかりの子どもが増えることも抑制できます。

さて、社会科。地理についていつも不思議に思うのは、日本の学生たちのアメリカ化です。自分の狭い世間のことについては、地理もやたらと詳しい。おいしい食べ物やさんや美容院や遊び場などについてはとても詳しいのですが、実際には東西南北を上下左右を使って表現したりする・・・。山の中で遭難しても上下左右じゃーまったく役に立たないし(爆)。でもそんなことは想定する頭もないわけです。東京とある特定の場所はわかるけれども、その他については興味も関心もなく、地図を読めない。コレは大問題だと思いますね。地図が読めない人間を助長しているのがナヴィゲーションシステムでしょう。確かに便利よね。不動産やさんや配達関係の人は持っていたほうがいいでしょう。時間の節約です。が、ドライブのために本当にあれは必要なんだろうか?便利なだけで、大切なものを失っている気がします。国土地理院に勤めることができるほどの知識を持て、と言っているわけではないのですから、地図くらい読めてほしい。地図から山の高さや広大さを映像化したり、気候を想像できたほうが、余暇も楽しめるし。

歴史についても同様です。自分の国の歴史がわからない人間が、どんなにか仕事ができるようになり、国際社会の場に旅立ったとき、戦争責任やその他についてどのような意見が持てるのか?世界史がわかればいいのか?日本史のみに偏っていていいのか?受験科目の内容を、テストに出やすい傾向を丸暗記するような学習で、人の心に共感し、痛みを理解することは到底無理でしょう。だいたい、年号を憶えて何になる?と私は中学生の頃から思っており、それよりも年表を映像で記憶したほうがよっぽどいいですね。年表は伊達に太字や色を使っているわけではないのでした。だから大きな絵柄がつかめて、さらに必要であろう細かいことについての推測ができる。他との繋がりについても理解できる。物事の順番や体系さえわからず、年号や登場人物や地名や建物の名前を憶えても意味ないよね・・・。点数は取れるだろうけれども・・・。でも、それって金箔でしかなく、金の延べ棒じゃないってことです。

受験能力というのがあり、京大や東大に入る人々はコレが優れています。私も何度か言いましたが、4択を2個まで絞り、その残り2個のキーワードによる推測などがソレに当たります。問題集などを見ていても、問題そのものを丹念に理解するよりは、出題傾向を解析したほうがずっと得点率は上がります。コレを身につけさせてあげて社会に送り出す教育は、かなりな本末転倒でしょう。まったく役に立たないとは言いませんが、画竜点睛からは遠いと思えます。それに、人間をスペシャリスト化することに拍車を掛けることになりますしね。

私は今でも小学校2年のときに習った「調布」の意味を語ることがあります。租庸調という日本史で習った「調」を布で納めていたからなのでした。なので、実際に小学校5年で習ったときにやっと繋がったわけです。  http://www.mode21.com/tax-system-of-early-japan/ それまでの3年弱は、大した実感もなく、「税」そのものがあまりわかっておらず、むしろキューピーマヨネーズの工場に社会科見学に行ったことのほうがでっかい興奮だったわけです(キューピーマヨネーズの工場のでっかいひとつも、調布にあります)。 https://www.kewpie.co.jp/mayoterrace/concept/index.html マヨテラスになっている! こうして世界は広がる、と、今でも強く信じているわけです。けっこういい成果が上がってることを、小学校と中学校のときの先生にご報告したいくらいですもん(笑)。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%BF%85%E5%B1%A5%E4%BF%AE%E7%A7%91%E7%9B%AE%E6%9C%AA%E5%B1%A5%E4%BF%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C Wikiにまとめてあります、この問題。