11/06/2006 にアップした文章です。

 

昨日、パチンコにも行かず、モーツアルト生誕250周年記念番組を見ていたのです。ここで以前、天才について書いたときに、校長センセとちいちゃんにコメント欄で「モーツアルト」に触れていただいていたからです。追加情報をアップデートすることは、特に義務でもないと思うのですが、やっぱり気になる。西さんのことも知るさらなる学習です>なぜあのときベートーベンと言ったのか・・・。

コメンテーターや旅人など、第一生命創立105周年のための冠番組だったせいもあり、かなり豪華な作りでした。クラシックの造詣がない人にとっては、あのようなキャスティングは脅威だったり権威だったりするのかもしれません。しかも、海外に出た日本人も多く出演していました。いやー、なんか近頃、プロデュースする方の立ち位置の側に廻ろうと、なかなか日々必死なのよ(爆)。そうなると、消費者として、視聴者として、普段はびくともしない知識からの「上から下を見る目」というのを、提供する側の目論見というスタンスで見てみなければならず、慣れないせいでけっこう苦痛。私は目論むなんてことはしたくない性質ですから。

モーツアルト本人についての追求と併せた伏線テーマとして、『天才はどのようにして生まれるのか?』を見ていっていました。どういう基準でアメリカの2つの大学を選び、その教授を選んだのかがわからなかったのですが、特にひとつは心理学の教授でした。脳神経学について、素人でもその神秘をくすぐられ、日々のレベルとしては『脳トレーニングブーム』でもあります。でも、どのくらいが浸透しているのか、私にはわからずじまいです。日本に戻って来たときにすでに私は大学終了ほどの知識は持っており、ガセネタも多い中、あらゆる人々と話すチャンスもそれほど持てずにいます。

学界の中でもどの学派をどの程度支持するか?というジレンマは日々あります。特に、生理学的なところから攻めている分野の人々は、環境要因のようなピンポイントしきれないものについて、バカにした態度を取るところもあるかもしれません。みんながそうではないです、少数だと思いたいですが・・・。が、社会科学は、この数的証拠をどのように捉えるか?を鍛える分野なので、以前から推奨しているAll-roundedな人間になるためには、相当にいい分野なのです。理系も必要だし、文系も必要です。

いわゆる天才脳は、右脳の開発が凡人と比べて恐ろしいほど進んでいます。いわゆる「わずかだが重要な違い」程度と言われている数的差異ですが、数字センスのある人にとっては、自分の慣れている数値の基準を持つ傾向があるのでこの基準値の設定を決めることから、基礎は始まっていきます。これを誤ると順々にどんどん誤差は大きくなっていきます。そこで、今日は基礎の基礎をもう一度。

出演者の言っていたことで「ふぇぇ、まだそんな状態なのか」と思ったのは、かなり多くの人々は、「天才と凡人は別世界の人々」と思っている節があるのだ、と感じたのでした。私の大学のトレーニングでは、天才はどこからやってくるのか、わりと明瞭に説明してもらっており、1.生物学的いたずら(DNAのコンビネーションの摩訶不思議) 2.後天的発達のための環境要因 このコンビネーションやその要因をどうやって解釈するか、ということでした。メスとオスの50%ずつを見るのではなく、できるだけ遡れる資料があればなおさらいいわけです。先祖のかなり前がわかれば、DNAに組み込まれている要素の大切なものを考える材料が増えます。この番組では、両親のことしか考えていませんでした。父親が宮廷楽人だったことで、その演奏者としての才能はなかったが、教育者としての才能は稀有だった、ということでした。母に至ってはそれほどの解析はされていませんでした。うーん、もったいない・・・。

天才と言われている人々が残した脳であっても(自分の脳を提供する偉人はいます;家族も了承し、次世代のために英知に貢献するわけです。臓器提供問題などについて考えたことがない人はこれも踏まえてみてくださいね)、その新皮質の使用量は10%前後とされているのが、現状までの医学の進歩で、まだまだキャパがあるという望みが持たれています。賢くなる可能性がある人々は生まれてきた生命体すべてであり、自分をすでに諦めてしまった人や、天才と秀才と凡人に大きな大きな器質的差があると思っている人々は、すでに同じスタートラインに並んでいないことになります。ひとつのヒントとして、右脳と左脳を繋いでいる脳梁(のうりょう)の発達の仕方にヒントが隠されているという研究を進めている学者たちがおり、それはてんかん患者の脳梁を切り離した手術をした60年ほど前からの研究なので、まだまだ進歩の余地があるところです(これが右脳と左脳の機能の違いのヒントとなり、こんにちまでに至っている)。

私が天才ではないのは、自分で痛いほどわかっていると書きました。が、秀才であるとは自認しています。学べばいくらでも吸収できると信じているわけです。天才と秀才の違いも書きました。ひらめきの現出度が違う。ひらめきの数が違うのです。私のひらめきは1週間に1度かそれ以上くらいの割合ですが、天才と言われる人々の脳では、数秒ごとや数分ごとくらいに起きているのだと思われます。その中でも珠玉のひらめきは、天才といえども生涯に数度くらいしかないようです。たとえば、作家のBob Brownは秀才でしょう。たくさんの資料や知識を頭の中に詰め込み、それを整理整頓し、理路整然とストーリーを組み立てる。それは秀才脳であって、天才脳とはちと違う。が、凡人だと信じていてもあの脳にはなれる可能性は大いにあるわけです。

まずは信じるか信じないかで、自分が到達できる脳の形状までも、その時点から大いに変わってきます。脳には宇宙以上のキャパが含まれており、私たちひとりひとりがそれを持っているにも拘わらず、信じなければ宝の持ち腐れなわけです。他人について「すごい」「ふえぇ」を無意味に連発することで、自分の脳を開花させるチャンスを減らしていることについては、意識したほうがいいかと思うのです。そして、そんな脳の形状を左右するのは、意識とそれに伴う行動なのです←結論よ♪

たとえば、私は天才脳にはもうちょい、惜しいところだったのかもしれないな、と思うことが、脳神経心理学や物理心理学などを習っていて、何度かありました。夕べの番組にあったように、映像化できてしまう記憶や、聴いたことを再現する能力です。私は楽器を習ったことはわずか数ヶ月のオルガンだけだったので楽譜もロクに読めないのですが、歌は一度聴いたらすべて歌えるようになります。歌詞は一度ではすべて憶えられませんが、おそらく歌詞を記憶するスピードも速いと思います。人の顔や名前も同様です。ヴィジュアルなものや聴覚について、さらには臭覚にも、平均以上の記憶能力がついていると思うのです。記憶だけではないのかもしれませんが、記憶は特に感じるところです。街の風景なども同様ですし、道順なども同様です。映像化した記憶がちで、関連化することが癖になっているわけです。頭の中にすでにあることを表記することはそれほど苦ではなく、どうやれば頭の中をコピーし、誰かに正確に伝わるかのほうの技術がなく、むしろ私は工学や音楽などの規則性があるものをやっておいたほうがよかったのかもしれない、と思うこともよくあります。が、それは会社がうまく行けばこれからできるかもしれないので、こうして書いておくのです←やたら楽観的(爆)。

いわゆる『どんぐりの背比べ』状態なのがあらゆることの現状で、誰かが特に秀でているなどという状態があるわけもないのです。ほぼすべての統計は突き詰めていけば正規分布(ベルカーブ)になります。あえて、自然界ではなく、人為的に工作したもの以外で正規分布にならないものがいくつかありますが(たとえば、アメリカの人々の収入分布など)、それは稀なことです。ほとんどの物事はみな真ん中に属することになっている。が、しかし、Σのマイナスかプラスに寄ることは、日々の努力によって可能です。特に脳については、日々の切磋琢磨しかないわけです。それについての希望はぜひぜひ捨てないでいただきたい。意識とそれに伴う行動を微量ではあっても変えていくことにより、賢く楽しく人生は過ごせます。

これを踏まえて、明日は早期教育からの人間の脳の発達について再び。

https://www.youtube.com/watch?v=E8hlXyNrxws