11/07/2006 にアップした文章です。

 

脳はすでに宇宙を内包できるほどのキャパシティを持って生まれています。そうなのよ、生まれてきたことそのものが、すでにミラクルです。個人差はあるものの、一度に放出される精子の数は3億から5億程度。そこからたったひとつの卵子にたどり着くわけです(アクシデントで2個あるときが二卵性の双子;ちなみに双子の確率は、0.4%前後と低い)。どんな子どもでも大人でも、生きているそれだけで、ヒトの場合には3億から5億の競争の勝者なのだけれども、せっかく生まれた生命を大切に生きていくのをついつい忘れてしまう。これが現状です。

妊娠がわかり、出産を待っている人々が口にすることは;「健康であれば、男でも女でもいい」「博士や大臣になってくれなくてもいい」などなど、ひたすら健康な生命であることを祈ります。が、しかし、舌の根も乾かぬうちに、よその子たちと競争させるべく、本人の意志をよそにパワーゲームに突入させ、モデリングという学習方法をまったく気にせず、子どもたちに他人を蹴落とすことや差別、パワーの利用方法などのネガティブなものをたくさん披露していくことになります。しかもね、五体満足や健康でなくともいいのよ、実際。生まれてくれただけで意味があるのです。私が軽いとはいえども障害を持っているから言うのではありません。生まれてきただけで本当にすごいことなのよ。それでもまだずっとわざわざ競争の数を増やし、エゲツない差別を教え、自分だけが他人と比べて有利になっていく方法は教えてほしくない、と、子どものいない第3者である私は考えています。のんきなもんでしょ?でも、これ真実に近い事実だと思うんだよなぁ。生命はもうすでに存在しているだけで尊い。そこが基本であり、そのあとぐちゃぐちゃと瑣末に綿密な段階わけをし、くっついてくるものは、この基本を押さえているからこそ派生してもらいたいもんだと、心から願うのです。

早期教育がなければ数々の天才は生まれなかったのだから、秀才は生まれないのだから、小さい頃から可能性の芽を見極めるために、習い事はバンバンさせたほうがいい。

↑こういうことを言う大人は多いです。でも、私はかなり強めに反対です。そもそも「させる」じゃねーよ・・・。使役動詞を頻度高く用いる人はすでにたいへんに奢った人であるし、対面を気にする人であると思うのだ。「ネコにえさをやる」ではなく、「○×(名前)にごはんをあげる」というのが私の日常会話です。あるいは言葉にせずとも、ごはんの時間だから私が出すわけです。人間ならごはんの時間だから作る、なので、作ってあげるわけでもなく、作ってやるわけでもない。

あ、ちょっと熱くなった・・・(爆)。習い事をたくさんさせるというのは、子どもを混乱させてしまうことになります。しかも、ひとつの習い事に適正がなかったから次へ、というのは子どもの自信喪失を招き、畢竟、自己尊敬心(Self-Esteem)をポジティブな方向に伸ばすことになりません。一度や二度の習い事チェンジはいいとしても、いろいろなことに手を出し、曜日によってたくさんの習い事をすることには、私は強く反対です。しかも、それらを自分が選んだわけではないのであれば、なおさら強さに輪がかかります。

健やかで倖せになってほしい、とわが子、あるいは子ども全部に感じたあの本当に純粋だった気持ちに、もしも嘘がないのであれば、そこを基本に始めてほしいわけです。健康という定義も世界保健機関(WHO)で変えるようにと、もうずいぶんと長いあいだ協議されています。このへんの歩みが遅いのはお役所仕事なのでどうしようもないのですが、健康には心も間違いなく入るわけです。いやいや塾に行ったり、たくさんの習い事をこなしたり、天才になるための英才教育を自分の意志ではなく施されたり、遊ぶゆとりがないことで、本当に子どもたちは幸せを目指しているのでしょうか?

何かの分野において、ある個人が大成することはステキだし、すばらしい。でもパワーゲーム・競争はキリがない。頂点に立ったり、頂点のそばにたとえ行き着くことがあるにしても、孤独で不安でつらい。本当に自分の子どもにそんな人生望むんだろうか?私は望まないんですが、「子どもがいないからじゃん」と言われたらそれまで。が、姪っ子たちにも望まないし、母にも西さんにも親しい友人たちにも望まないです。「平凡であることは難しい」というのは言い尽くされてきた言葉ですが、これも一考したほうがいい噛み締め甲斐のある言葉です。達成することそのものが目標になったり、頂点に位置することが目標そのものになったりする傾向は否めません。むしろ、そこに到達するまでのプロセスが大切で、しかも、そのプロセスを楽しむことができる・身になることを積んでいくというのが、生命というもんのすごいミラクルをもらった個体が「積み重ねの存在」であるゆえんです。

昨日触れた天才の傾向にはひとつ注目したほうがいいことがあります。Repetition(反復)を厭わないということ。練習であっても、修行であっても、ドリルであっても、作業であっても、習慣的行動であっても、対象は何でもいいです。天才に共通したひとつの着目点は、繰り返しをまったく嫌がらず、むしろ楽しんでいるということ。凡人でも好きな食べ物は繰り返して食べます。また食べたいと欲するわけです。やることが何であるにしろ、天才は自分の適性があるもの(あるいは天才の器ではなかったにしろ天才化してしまったもの)に対して、繰り返しやる気力があるわけです。「できなかったからまたやりたい、克服したい」というのも、繰り返しの動機になりますし、「うまくいって気分がよかったからもう一度この気分を味わいたい」というのも強い動機になりますし、「さらにもっと上を目指したい」というのもさらなる強い動機になります。そこが「ローマは1日にしてならず」に凝縮されている部分であり、「努力そのものが人生の価値なのだ」などと言われる要素です。が、しかし、本人にしてみれば作業をしているだとか、努力をしているなどと思っておらず、いつしか意識から無意識の行動へと移行し、なくてはならぬ不可欠なものにまでなっていく。そうして自分という人間の一部になっていくわけです。

特に天才でなくとも、秀才脳であっても同じです。私もかなり繰り返しの多いやつです。もう40歳を過ぎたのですが、しつこく同じことを繰り返すことが決して嫌いではなく、むしろ好きなのです。このブログを書くのもネタを考え付くのは厳しいですが、書く行為そのものはまったく苦痛でもなく、むしろ楽しい。内職まがいの細かい作業もとても好きです。検品と日本語取り扱い説明書を手作業で入れたときには、うれしくて飛び上がっていました(笑)。本を読むのも同じで、ページを括っていく行為がたいへんに楽しい。そこでいつも思うのが、子どもの頃の遊びなわけです。今となってはもう数えることなどできませんが、何回なわとびを跳んだのだろう、何mほど泳いだのだろう・走ったのだろう、何度くらい雨の中犬パトロールをしたのだろう(犬を濡らさないために近所の犬をチェックするパトロール)、何度同じ遊びをしたのだろう、と、本当に繰り返しばかりをしていたわけです。それが子どもの仕事であり、遊びに取り込めれば一石数鳥なわけです。特にお金と時間をかけて習い事に行くこともなく、雑巾掛けであっても筋力は強化されるし、道徳も学べるし、習慣づけができる。私はたまに泣きながら掃除を今でもしていますが、技術は身についていますから←かなり言い訳ちっくだな・・・(笑)。

今でも同じことで、繰り返しを苦に思わず楽しんでやっていることには、本当に適正があるわけです。秀才脳化されている-行動によって脳も変形しているぞ-となんだか手応えがあるほどです。なので、できなかったはずのぬり絵も、再開すればできるようになると思っているし、今度はイラストレーター8.0にチャレンジする予定にもしています←操作スキルはともかく、出来上がりのセンスについてちょっと無謀だとも言われているんだけれども・・・(汗)。

子どもたちも、特にたくさんの習い事をせずとも、自分が好きな1個をずっと続けられることが倖せだろうし、外で一生懸命に無意味に見える繰り返し遊びをするのがたいへんに後々生きてくるわけです。なぜに、楽しいと感じながら繰り返すことが必要なのか?脳内ケミカルが分泌され、それを脳が記憶していくのです。それにより「ヨロコビ・楽しみ」などのポジティブな感情が動機付けを簡単にし、欲を強化します。次にやるのはまったく苦でもなく、むしろ楽しい。その逆を行っているのが、自分で考えなくても遊べる種類のゲームなどで、ただの技術(たとえば指先を動かすなど)を強化するものです。どうせ機械化されたゲームを与えるのであれば、クイズなどが入る、考えねばならぬゲームを好きになってもらえるようにしたほうがいいと思われます。

そんなわけで、子どもは遊んでいればいいのだ、私がその例だよ、というのが、私がいつもママになっているお友だちに言うことなのでした。