11/11/2006 にアップした文章です。

 

ドメスティックバイオレンスの変形版について、本日、TBSの昼間の番組でやっていたのだが、なにやら気抜けしてしまった・・・。http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20040803sw31.htm これが紹介記事。力を入れている団体の紹介もあります。2年以上前から活動していることがわかりますが、私はコレを今日知ったのです。浦島太郎だなぁ(笑)。http://www.geocities.jp/www_aware_cn/ これが団体です。

森村誠一作品ばかりではつまらないので(ごめんなさい、森村先生)、松本清張や宮部みゆきや東野圭吾作品を混ぜて借りて読んでいます。またもや犯人がわかってしまうようになり、トリックや動機までわかってしまうようになり、いけませんや・・・。ここにもヒトの脳と学習についての関連性を、しみじみ不思議に思うわけです。えっと、本題は、森村誠一作品には、このデートDVの兆候がたくさん書いてあり、「名前をつけて特化するほどの現象なのか?」という疑問が湧き上がってしまったわけです。

男女の持つ生物学的要因による行動と、そののち文化圏の中で形成される社会学的要因を併せて考えると、メス・女性のほうが暴力にさらされる割合が大きいのは、論理的に納得できます。その「当然」を見落としているそもそもの構造はどこから来ているのか?こうして、年齢層や傾向などを特化することで、そのキャンペーンをしていくことで、成果が上がっているのでしょうか?ましてや、私の母のような年代の人たちにしてみれば、「新語」が増えることは「疎ましい」ことなのです。看板に英語があるだけで飛ばしてしまい読まない。読めないからです。スペルアウトして読めたとしても意味など追求できないし、面倒。有効性がさほど高くないこの新語とそのキャンペーンに、なんだか疑問を持ったのでした。

カメラが廻っていることを承知の上で、男の子の数人は、自分が女の子に暴力を振るうことをしっかり明言していました。恥がないというのではなく、悪いこととすら思っていないからなのかもしれません。ということは、この暴力を振るうことが悪いとも、相手につらい想いをさせるとも思っておらず、自己正当化が強調されたシステムが出来上がっている確率が高いです。

アウェイという団体は、治療でもカウンセリングでもないとはっきり書きつつ、プログラムを実施しています。医者やカウンセラーがやっているのではないので、それは書かなければいけないことなのでしょう。が、かなりお高いです。料金を徴収するということは、「自意識の中に暴力は悪い」と本人が思っていて、なんとかしたいと自腹を切る覚悟をしているか、誰か近い交流関係の中の人が引っ張ってくれて、お金を心配しないで参加することになると思うのです。デートDVの低年齢化を考えると(TVではそう言っていた)「親がかりのお金なの?」と、参加費用の3000円(複数で対面式)、8000円(個人で対面式)、10000円(電話で90分)で、団体の運営資金を調達する(存在しなければこの活動は続けられない)ことを第一義に考えたとしても、本当にお金を払って「暴力を何とかしたい」と思う人がどのくらいいるのか?と、またもや考えてしまうわけです。

しかもねぇ、その暴力の内容には、「経済的暴力」というのもあり、女性からお金を巻き上げることをなんとも思っていない男の子(あるいは若い男性)がいるわけです。けっこうな矛盾だよねぇ。自腹をしっかり切るか、誰かに引っ張られて来るならば暴力という悪循環の輪から出られるけれども、そうでなければ出られない。あるいは、被害者がまたもやここでお金を出すのか?親がお金を出すのか?

そこで森村誠一作品に戻りますが、ヒモは昔から存在しました。そこに暴力は付き物でしたし、心理としてのパワーゲームやテクニックなども、たくさん披露されてきたのではないのでしょうか?要するに、彼らは「ヒモ予備軍」だったり、飴と鞭をよーく知り抜いていたり、と、既存のものを自分に取り入れて、学習してきたわけです。最近始まった話じゃーないですもん。

ひも:(1)物をくくったり、結んだり、しばりつけたりする細長いもの。糸より太く、綱より細いものをいう。ひぼ。(2)女を働かせ金品をみつがせている情夫を俗にいう語。(3)何らかの制限を加えて、自由を奪うもの。(4)〔その形状から〕アカガイ・ホタテガイなどの外套膜。

飴と鞭: 〔ビスマルクの社会主義運動に対する政策を評した言葉から〕譲歩と弾圧とを併用して行う支配または指導の方法。

宮部みゆきにも江戸時代の江戸の町の悲喜こもごもを書いた作品がけっこうあるのですが、それにもヒモ的男性は出てきます。ビスマルクよりずっと前に、仏教の「飴と鞭」について、私はアメリカの宗教学の授業で教わりました。牛飼いが使っているもので、決して男女ではないのですけれどもね。男女だけではなく、親も子どもに使っている場面を、私はイヤというほど見てきました。しかも、躾や子育てに暴力は必要だ、とか不可欠だ、と堂々と言う人たちがいるではないですか・・・。戸塚ヨットスクールでは、虐待死ではなかったものの、父親といっしょに合宿中の男性が行方不明になった挙句、遺体で見つかりました。あれは一体どうなのよ?http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/061107_7.htm 

DV(Domestic Violence;家庭内暴力)にしても、クローズアップされてから本当に成果が上がっているのかどうか、その数字を私だけが見たことがないのでしょうか?もちろん、DVの性質からして、駆け込み寺のようなものがない限り、隠蔽性を持つので外から気づくのは本当に難しいわけです。けれども、こうした暴力の特化を見ると、「暴力そのものの多様な意見」に立ち戻ってしまいます。「場合によっては暴力賛成!」「叩いて教える!」「何度言ってもわからない場合には痛みで身をもって知らせる」など、都合のいい解釈を、どうやって社会全体に浸透させるのか、たいへんに疑問なのです。これらが、若い男の子が、自分のモノになったガールフレンドに対して言っている言葉だとしたら、どうなのよ?子どもはよくて他人はダメという、所属物的考えには、私は到底ついていけず、納得もできません。結婚したら暴力を振るってもいい、という訳のわからない理屈も受け付けられないです。

デートDVの暴力の種類にはたくさんのものがあり、それを見極めたり、性質をそれぞれ知ったり、その感情を知ることがプログラム化されているようです。教わらないとわからないことは確かにたくさんあるのかもしれません。が、何よりも、「自衛」や「自助」をまず進めてほしいと願ってしまいます。そして、何にせよ、パワーを好き放題に使って、他人を自分の利益のために駒のように自在に動かすような態度を、この世から抹消してもらいたいもんです←まぁ、コレはユートピアに行かないと無理なんだろうけれども・・・。そこを出発点にしてから、特化なんじゃないかなぁ、と思う私は、堅い人間なのでしょうかね・・・。あるいは、最低限の人の痛みをわかるようになるのに、20年弱もかかるなんて!というのが、高すぎる望みなのでしょうか?

デートDVをしたことがある、されたことがある、という人々がとても多いようであれば、たいへんに危険な社会に私たちは住んでいることになります。暴力というのは辛さ(Spicy, hot)と同じで、エスカレートするものです。体力がなくなって振るえなくなったりしない限り、なかなか自分で止めることはできません。それを規制するのが法律だったり、近所付き合いの監視だったり、国民の義務である納税・就労・教育だったりするのですが、どれももちろん完璧なわけではないです。あー、また心配になってきちゃったよ・・・。ちょっと現実逃避して、読書することにします(笑)。