11/15/2006 にアップした文章です。

 

ここのところ、生命の大切さを書いています。私にも生命の危機が何度かありました。最近は大丈夫そうなのですが、日本に戻ってきてからのストレスの多さはひしひしと感じています。さらに追い討ちを駆けるように、日曜日、フリーマーケットでコンクリートの上に5時間半も座っていたら、すっかり身体の芯が冷えきってしまったせいか、持病の腰痛がひどく、椅子に座れませんでした。朝はささやかな痛みだったので、メールだけには目を通したのですが返事ができず、エッセイも遅れてしまい申し訳が立たぬ。しかし、こんなに痛いのは、数年ぶりでした。恐るべし、日本の寒さ。

生き延びた先に何ができるのか、何が学べるのか、何を次世代以降に伝えられるのか、を考えていると、かなり悲観的になります。まずひとつは、「便利になってしまった暮らしを捨てることはできない」という前提があります。この携帯やネットのお手軽さを捨てろと言われてもできない人が大部分でしょう。使ったことのない人たちは「捨てる」必要はないわけです。なので可能ですが、使ってたいへん便利な想いをした人たちは「捨てる」ふんぎりをつけなければならず、その重大性や必要性が大きくなければ、自主的には捨てられないです。

私の飲酒と喫煙がソレで、飲酒はここのところ収まっており、この1ヶ月で1回しか飲まなかったのです。が、翌日は盛大な二日酔い。喫煙に至っては、Al Capone(アル・カポネ)の禁酒法時代のような、強制的制限がなければ止められないのでは?と、もう10年くらい前から思っているのです。各所でこんなことを言い訳しており、お恥ずかしい次第です。喫煙の代償が、ガンや動脈硬化による心臓疾患などに繋がるか、法的強制力がつけば、すぐさま止められるのではないかと予測するのですが、今のところどちらもないので日々甘んじて決意ができないでいます。

便利な生活もそのようなもので、使い慣れてしまうとなくてはならないものと化してしまう。愛する人がそばにいるときにはそのありがたみがわからず、失ったり、別れたり、死なれたりしてからようやく、その偉大な存在に気づくのと似たようなものです。その点、西さんは山登りを未だに続けているので、最低限のモノや便利のない生活にかなり近いところと、便利な生活を行ったり来たりしており、彼のたくましさには感心させられます。映画でも、「災害モノ」がよくありますし、アクションでも「絶体絶命場面」がたくさんありますが、私などはあれらを見るたびに、「自分だったらどうなるか」と思いながら見ています。西さんは生き延びる率が高い個体です。私も遭難すれば、きっとタバコは止められるなぁ・・・(爆)。

長々と関係のないことを書いたように見えますが、実はこれと共通の理論が教育です。「与えすぎて定着したものはのちのち変えるのがとても困難」ということ。その与えすぎるいろいろは、教育の観点から見るとたくさんあります。

愛・知識・金銭・おもちゃ・ゲーム・TV番組・友だち・洋服・習い事

などなど、本当にたくさんのものを過剰に与えていないのか?を考えると、先々、私のタバコのようなことになり、たいへんな量を与えているかもしれないわけです。

私は貧乏だったからお金があるようになっても、貧乏暮らしが身体の芯から染み付いており、無駄だと思えることにお金が使えません。交際費は別としても、洋服やゲームや車や贅沢品は欲しいと思えないわけです。気づくと日本に戻ってから、日用品以外の買い物は一切しておらず、本も図書館通いを開始し、1日2冊弱ほど読んでいます。こんな調子だと破産する勢いです(笑)。いつ貧乏どん底に戻るかもしれず、その準備をして哀しい性(サガ)なのかもしれません。でも物質的なものがいくらあっても、心が不安なほうがずっとつらい。23歳のときに、ある高名な整形外科病院の娘さんが、600万の毛皮を着て(ミンクだったよ・・・)、イタリア製の7万のパンプスを履いており、ロレックス・エルメス・グッチ・ヴィトンなどで、合わせて1000万以上のいろいろを身につけていたのですが、ちっとも倖せそうではありませんでした。人の悪口のオンパレードで、彼氏も信頼できず、おいしいものをおいしいと気づけないくらいの味覚しかなかった・・・。これは極端な例ですが、程度を知らないとこういうことにもなりうるわけです。

愛という名の下に子どもを囲ってしまうと、自分の足で歩けない大人になります。日本女性の場合、参政権を得るまでは、あるいは人によっては今でも、保護者が父や母であり、結婚して夫となり、老後には息子になっただけ、という心持があったわけです。それに付随する人生のヨロコビは狭められ、自由や達成感や探究心やその他を得る機会が奪われ、庇護の下、狭い世界に住んでいた(いる)わけです。日本も核家族が崩壊し、サラリーマンが増え、学歴が向上し、それに伴い少子化現象が世界一となっていく中、子どもひとりに与えられる経済的なゆとりもでき、精神的な望みもでき、物理的な時間もできた今、「与えすぎ傾向」は、戦前・戦中・戦直後を必死に生きてきた人たちには、想像もつかない事態になっています。

「私にはできなかったことをやらせてあげたい」というのは、本当に親心なのだろうか?愛なのだろうか?ただの履き違えなのではないのか?と、つくづく私は思うのです。「自分に向いていることをしてもらいたい」がいつの間にか嵩じて、自分のできなかった夢を果たしてもらおうとしたり、自分がしている苦労をしてもらいたくがないために、手に職や才能を伸ばそうとしたりしていないか、胸に手を当てて考えてもらいたいな、と思うのです。子どもを育てるのは結果論であり、子どもが大人にならねばその是非については、正確な答えは出ないと見る人たちがいます。私も10年ほど前まではそれに納得したこともあったのですが、実際はそれも違う。生命体の学習は死ぬまで続きます。答えは死ぬ間際まで出ないのですから、生命体の最初の数年(ヒトの場合は最初の15年から22年くらい?)も、しょせんは一部でしかないわけです。大切な「はじめの一歩」ではあるにしろ、地域全体で、国全体で、地球全体で子どもを育むのが理想です。親にだけ下駄を預けて、責任を押し付けることは、私にはできないことです。社会問題における犯人探し体質は、まったく意義のないバカげた徒労です。

ノイズをたくさんに増やし、情報処理がちゃんとできない子どもに、物事を与えすぎるのは、本当に害です。あらゆる可能性があるのであれば、子どもの心と身体が向いていく方向を見極めて、学習の仕組みをわかるほうが先でしょう。動機が強ければ強いほど、子どもは伸びていきます。動機付けができる、子どもの自助と自習のための環境を用意することが、大人にできる教育です。子どもたちに学べ、育て、勉強しろ、マナーを身につけろ、と言うのであれば、大人たちも率先して、学び、さらに育ち、勉強して、マナーを身につけていかねばね。

生き延びた先に希望が持てなければ、さらに生き延びたいという気持ちも萎えます。大人たちが子どもに見せて、希望を持ってもらうためにしたほうがいいことはたくさんあります。差別をなくすこと、地球全体の環境破壊のスピードを緩やかにすること、平等は無理でも公平な判断をする機関や大人が増えること、安全を確保すること、笑顔が思わず出る楽しみを増やすこと、などなど、本当にたくさんの課題があります。でなければ、本当に『風の谷のナウシカ』のような世界が待っているかもしれず、戦争はいつまで経ってもあちこちで勃発し、損得勘定ばかりが優先する人間関係が横行し、希望が持てない未来を子どもたちに押し付けることになります。

TVプログラムと、お友だちの妊娠でここのところ教育について考えてきました。姪っ子たちといっしょにおでん食べる約束なんだった♪早く招待が来ないかなぁ(笑)。