11/19/2006 にアップした文章です。

 

なぜに人は「自分の手に負えない交際範囲」まで飛び立とうとするのか?これについては、18年半前、単身留学した自分が答えられないのはおかしいのか?(爆)私は、あの当時、自分にはアメリカでの単身生活は「手に負える」と自負していました。できないわけはない、と。人間関係についても同様で、自分なりのそれまでの体験により法則性を生み出していたので、仲良しもできるだろうし、希薄なまま知り合いで終わる人もいるだろうし、すれ違っても知り合いにすらなれない人もいるだろうと思っていました。場所の移動はするが、それほどいっぺんに広げるつもりもなければ、計画は綿密に立てていたのです。

負う:(1)(人や物を)自分の背や肩に載せて支える。せおう。(2)負担となるようなことを引き受ける。(3)傷を受ける。(4)背後にもつ状態にある。背負う。(5)(「…に負う」の形で)…のおかげをこうむる。(6)借りる。(7)名としてもつ。(8)似つかわしい様子である。相応する。[可能] おえる[慣用] 始末に負えない・手に負えない

いつも言いますが、「自分の今のキャパの一回りか二回りほどの上を目指す」ことが最も効率的ですし、現実的です。今の状態をキープすることすら難しい人にはたいへんかもしれませんが・・・。それを数的に表現すると、+-0をキープするか、-に下がることをよしとせず、+を目指して足りない部分を補う覚悟があるかどうか・・・。簡単な算数なのに、人はどうしてか「自分の手に負えない交際範囲」に手を出そうとするのは、私のように現実的で厳しい人間には謎です。夢ないのよねぇ・・・(爆)。

恋であれば、征服感なのかもしれません。山に登るのはなぜか?という問いと同じ質になるのかもしれない。私には「達成感」は理解できますが、「征服感」はどうも理解できない。しかも生きているものを対象物にするのはどうもなぁ。能力を磨くための何かだったり、それに伴う具体的な数字(山の標高や前人未到の何かとか)だったらまだしも、ナマミの命を対象物にするのはどうも気が引ける・・・。できない・・・。そのナマミの命が持っている能力だとしても、自分以外の人の達成感など私には設定できるわけもなく、ゆえに教師にもそれほど向いていないのか?と思うわけです。○×校合格!なんていう達成感は、私にはあまり目標設定としても理解しきれず。私がコロンビアかスタンフォードに行きたいのは、そこでしか教えていない教授の学問領域があるがゆえです。躾も同様。本人の意思を強化させる環境を用意できてこそ、披露し選択してもらえる、と考えているのもそのせいです。相手が子どもであれ、それは変わらない。別の個人の自由や権利はどんな方向性であっても無視していいものではありません。

達成:成し遂げること。

征服:(1)征伐して屈服させること。(2)難事に打ち勝ち、目的を達成すること。

(2)の対象物を自分以外の生命を「変えること」にするのは、やっぱり違うんだと思うよ・・・。(1)の屈服なんて言葉は、私のボキャブラリーにないよ・・・。

私が過去経験したことで、フィジカル(物理的)な不可能を感じたのは、ネットでのメール相談。メールがわんさか来てしまい、その返答に心と時間と頭をたくさん必要とすると、ネットというのは害悪になるということ。私のキャパを軽く、ものすごく簡単に超えてしまうわけです。メールの相談者に近い人が精神病だったり、堕胎や暴力などの相談だったり、手間隙がかかる調査を必要とする相談もあり、けっこう時間を割かれました。メールの数が多くなると、いつしか「優先順位」をつけねばならず、自殺の危険があったりするともうたいへんです。パニックで、私が本来の能力を発揮できなくなり、平常心を保てなくなることもしばしばでした。それに、他人の秘密を墓場まで持っていくのはたいへんな負担です。そもそもの私はたいへんな正直者なのです。「王様の耳はロバの耳」化していく自分が、ゴミ箱になったような気分になったこともあります。しかも生命に優先順位をつけているかのような錯覚を起こされる危険も大有り。

が、イマドキの若者たちは携帯メールを苦ともせず、相当エンジョイしているらしい・・・。内容が希薄だから数で勝負らしい・・・。学校が終わったことやバイトに向かうこと、どこかでセールがあることや、おいしいお店などの簡単な情報交換で済んでしまうから、数はこなせるらしいのである。

ここで思うのは、「こうした人間関係のグレイエリアの中うまくつきあっていく」のが、全体主義が発達した、特にアジア諸国の文化圏の特権であり、よく使えばいい方向に生かされ、悪く使えばたいへん悪い方向に行くこと。私は自他共に認める合理的な人間なので、グレイエリア(曖昧・解決せずに放置して時間や他の人や出来事が起きるに任せる)のは、たいへんに歩が悪いことだと考えるのです。日本で生まれ育ったというのに、アメリカに渡って地面にキスして感謝したいほどだったのが、個人主義でした。もう一度意味の復習。

全体主義:〔totalitarianism〕個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される。

個人主義:(1)〔individualism〕個々の人格を至上のものとして個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務と責任の発現を考える立場。 (2)その人の属している組織全体・社会全体のことを顧慮せずに、個人の考えや利益を貫く自分勝手な態度。

個人主義の(2)が悪い面が大いに出てしまったときの状態で、日本では主にコレを個人主義と考えている人々は多いようです。私は、アメリカでこの(1)状態に長らく恩恵を受けてきたので、これほどいいことはないと考えるわけです。

もう一度、しっかりと難しい部類の基本に戻ってみると、「自分の手に負えない交際範囲」に手を広げることは、自由という権利を乱用していることに繋がるわけです。そこには義務や責任を伴えない。だから、社会全体や小社会(友だちの輪なども含む)についての思いやりを考えず迷惑を生む。全体主義に当てはめてみても同じで、「手に負えない」とわかっていることに手出しをすると、全体の成長や発展には繋がらない。簡単な算数だと思うのですが、欲や衝動のほうがずっと大きいのか、感情のみで動いたほうがいいと誤解しているのか・・・?と私にはやはりこの謎は解けぬのです。

自己分析をススメてきているのはこういうことです。己の力量や方向性や意志、目標や夢やその他がしっかりわかっていれば、「現在の自分より一回りか二回りほどの上を目指す」ことはそれほど難易度が高いことではありません。ポジティブにいていいし、社会のために己をひどく犠牲にすることも必要ありません。ささやかな義務や責任が取れるよう、カバーしてもらえるように、仲間との一体感はいつでも持っていたほうがいいです。自分ひとりで何でも解決できたらヒトは社会動物として進化してきていません。ただし、いつもいつも尻拭いを期待しているようであれば、それは愛に条件をつけることになります。愛してるんだからいつも味方になってね、という・・・。

日本に生まれた限りは、この全体主義のいいところと、個人主義の上手な輸入をしたほうがいいのです。私の中の合理性が叫んでいます(笑)。個々の人格が至上のものであれば、愛に条件をつける必要もありません。みんなが高倉健さんほどすごい人ならば、ちょっとした失敗くらいカバーしてくれます(笑)。愛に優先順位をつける必要もなければ、容姿や美やシュミなどで人を差別する必要もなくなります。

(書いてきて、そうか、こういうことが言いたかったんだ、とこの2日のもやもやが晴れたな・・・爆)

人の悪口や国や文化の悪口をやたらめったら語る人になってしまわぬよう、自分のこの全体-個人主義についての見解・スタンスをもう一度チェックしてみては?そうすると、かなりいろいろなことがクリアに見えてくると思うのです。