11/22/2006 にアップした文章です。

 

昨日、本当に久しぶりにダライ・ラマをTVで見てしまい、母親にわからぬよう泣いていました(笑)。10代のときにチベットが自治区になっていることを不思議に思うきっかけになったのは、植村直巳の軌跡を調べていた折。冬のマッキンリー単独の帰り道に遭難し、還らぬ人になったため、なんだか時間をかけて調べていました。繋がっていくものなんですねぇ、興味は・・・。当然、植村直巳はチベットも訪れており、初めて知ったカトマンズやその暮らしを見たあと、私はそこでダライ・ラマを知ってしまったのでした。そして、その揺るぎない愛に、影響され続けてきました。尊敬する人が少ない私ではありますが、ダライ・ラマは言葉にできないほど尊敬しています。いやー、すごい人だ。

ダライ・ラマの日本支部のサイト>http://www.tibethouse.jp/ ここをコチャコチャクリックすると、彼がどんな人なのかわかるようになっています。さらに、スピーチ集を読むと、かなり敬虔な気持ちになれます。

そして、アメリカに渡ってからというもの、アメリカ人の親ダライ・ラマ度の高さに、本当にびっくりしたわけです。その理由は、おそらく、Richard Gere, Julia Roberts, Brad Pitt, Steven Spilbergなど、高名なハリウッドの支援者のおかげなのでしょうが、私がそこで確信にも近い悟りに到達したのは、「誰であれ、たとえ自分が信じる宗教でなくとも、信じられるものは信じられる」ということです。私はいわゆる無宗教な人間ですが、Higher Power(人智を超える目に見えない力)の存在はあると考えています。それが宗教として分かれたり、枝葉の宗派を作ったりしているだけで、神を人の形にしようがしまいが、そのエネルギーの塊(あるいは分散した存在)は、確かにあると思っていたほうが無難な選択です。多くのノーベル賞学者、特に物理学を極めた人間、量子力学なども最後の詰めのところで、神の存在を認めなければ論理の屋台骨が崩れることになることも、ままあるわけです。ごく一般の統計学にも、「チャンス」「偶然」という形の「見えない力」は働いており、物事には完璧はありません。そんなわけで、私はその力がどのくらいのものにしろ、「存在しない」と言い切るほうには属さないでいます。科学のほうが正しいのだ、と言い切ることはおこがましいことです。畏怖するほどの尊いものの存在を忘れては、あらゆる罪が生まれます。

私の腰が引けている理由は、宗教が醸しだす「自分のほうが正しい」という態度。どんな宗教をたまたま自分が選んだとしても、他の人が選んだものにケチをつけ、否定するなどという態度を当然だとすることに我慢がならぬのです。思えば、友だちや恋人や夫婦や親子のケンカも、「考え方の違い」から生まれます。「違って当たり前だろよ・・・」と思う私は、ハナっから「違い」に目くじらは立てませんもん。違うからおもしろいのだし、違うから学べる。違うから個性だし、違うから進化もしてきたわけです。同じすぎたら怖いって・・・。そのスケールの大きいものが戦争で、「考え方の違い」が大勢の人を巻き込み、大きなお金や利益を孕み、どんどん膨張したものです。

なんだか、そのすべてを超えようとしている人、あるいはすでに超えてしまったんだろう、と思える人が、私にとって、ダライ・ラマです。彼自身は超えてしまっているのでしょうが、彼が触れ合った人々すべてをいっしょに超えることをまだ目指しているがゆえに、まだ「超えようとしている人」である部分が残るのですが、彼個人では、とっくに超えてしまっているように見えます。現在71歳。崇高・品格・慈愛など、私が持ちきれないでいるものの「いい例」がまんま同じ時代を生きていると思うと、なんだかそれだけでうれしくて感謝です。マザーテレサも同じでしたが、ある人にとってはバチカンの法王やダイアナ妃などもそう感じるのかもしれません(私は感じないのですが・・・)。

違いを超えられる人間は、やはり居るようであまり居ない。超えているように見えるだけで、本当のところは超えていない。私がまさしくそれです。解脱を目指しているものの、まだたまに西さんや母に怒っていたりします。情けないことです。どんなに理不尽なことをされても、その怒りをポジティブに生かしていくことができるかどうか、違いに対してゆとりが持てるかどうか、陰陽に振り回されずにすべての考えを包容できるかどうか、今の自分が絶対ではなく、普遍をいくつも身につけられるかどうか。本当にダライ・ラマに学ぶことは奥が深いです。笑顔ひとつに、祈る姿勢に、知識の深さに、声の抑揚に、何より人を思いやる気持ちに。どうしたらあんなすごいところまで到達できるんだろうか?と、畏怖でいっぱいなはずなのに、ダライ・ラマの笑顔には、4歳で見出されたときの笑顔が67年経った今でも宿っており、その邪気のなさには親しみも逆に感じるのです。

まだ見ていない方は、ぜひぜひhttp://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005FXNV Kundunを見てみてください。Martin Scorsese監督作品なのですが、かなり忠実に作ろうと鋭意努力したようです。が、実際すべてをカバーできるわけもなく、長い映画のわりには、駆け足な内容になっています。この作品に関して賛否両論ありますが、少なくとも存在を多くの人口に伝えたことは功績です。アジアや仏教、歴史などがわかっていない!と憤っている人々もおり、それはそれでたいへん好ましいアウトカムなのではないのかなぁ。本当に中国とチベットを始めとする、アジアの歴史を理解しようとする、西洋批判、などが1本の映画により、西洋に生まれ暮らした人々から出るのは、それが正解かどうかは別として、いいことだったと思うのです。私はこの映画の、きれいな色のついた曼荼羅のシーンが好きです。きれいだ・・・。あんなに細かい作業ができる人々も尊敬しますが、あれを作った人がいて、あれにはすごい意味が含まれている。すごいです。私ができるのは、せいぜいワインバーのコンセプトデザインくらいだった・・・(汗)。

私は常日頃、人の脳には途轍もなくスケールの大きい、それでいて綿密な小宇宙が入っていると言っています。その宇宙の大きさも、やはりダライ・ラマはすごいんだなぁ。私は父が早くに死んでしまったせいもあり、輪廻転生は信じたいのです。それが本当でも嘘でもいいので、強く信じたい。私にたとえ輪廻転生が起こらずとも、ダライ・ラマが14代目で、その前にも600年もの魂の修行があったというのは、すごいスケールの生命の繋がりだ・・・。説明のしようのない、学習のしようのない言語をすでに取得していたり、調べようのない、歴々のダライ・ラマの遺品を憶えていたり、癖を受け継いでいたり、傍にいた高層などをなつかしそうに語ることができる4歳の子どもがいるかどうか?その確率は?というのを、科学的に考えてみるのもいいのですが(0%に限りなく近い確率になると思う)、そうでなくとも、私にはこの輪廻が続いていてほしいなぁ、と強く願う気持ちがあります。

私にはかつて揺るぎない愛が持てたことがあったのだろうか?コレはあるのです。西さんや母やネコたちや親友やその他、数えるほどはあるのです。が、すべての生命体に、すべての人間に、違いがあることを承知の上で、すべてを包括する揺るぎない愛が持てているかどうか・・・。すんごいスケールですよ、コレ。しかも、ドアマットなだけではなく、チベット自治区を追い出されて亡命したあとの、彼の確たる凛々しい態度は、そのやんわりした外見とは違い、たいへんに力強くしなやかです。

彼のスピーチの中に、利他的;自分を犠牲にしても他人の利益をはらうこと、という言葉がよく出てきますが、社会心理学でもコレやったんですよ。Altruism というのですが、人間って捨てたもんじゃーないんです。授業中泣いたバカものは私です(爆)。昨日、品川に行ったあと、京王線の新宿駅からの準特急で座れてしまったため、のほほんと横溝正史(人形佐七捕り物帳シリーズ)を読んでいたのですが、明大前で席を譲りました。コレくらいはあまり大したAltruismではないのですが、その車両では私以外の人は席を誰もそのときに譲っていませんでした。

ちょっとおかしな私は、「ダライ・ラマが見てるからがんばろ」などと本当に声に出したりするのですね・・・。それが母になったり、祖父になったり、父になったり、マザーテレサになったり、ヨハネパウロになったりもするのですが、From a distance ちょっと遠くから神様めいた誰かが見ているんじゃないかと、強迫観念にも似た気持ちがあるのは確かです・・・。