01/05/2007 にアップした文章です。

 

明けてからなんだかとてもくだらない問題を目にしてしまい、エッセイにするのも恥ずかしいくらいなのだけれども、私のスタンスは書いておいたほうがいいと思っているところです。ネットに神社やお寺もどき、おみくじなどがあるのは、今に始まったことではなく、やった本体が、伊勢神宮が司っている神社本庁に登録している神社かお寺だということで、問題視されているらしいのです。http://www.jinjahoncho.or.jp/ そもそも神社本庁というのがどういうものかというのはこちら。見ると長いのですが、それほどすごいことが書いてあるわけではありません。組織の概略や歴史です。父の実家も神社なので、私は少しだけ理解があります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%9C%AC%E5%BA%81 

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20061218nt06.htm これが問題提起のニュースの一例です。ネットに神霊はいない!という見出しのついた新聞もあり、「では、どこに神霊はいるのか?」と問いただしたいところですが・・・。それは個人によってスタンスが違うのでしょう。

神霊:(1)神。神のみたま。また、神のすぐれた徳。(2)たましい。霊魂。

私は、Symbolism(シンボリズム:象徴主義:一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、主としてフランスを初めヨーロッパ諸国に起こった芸術上の思潮。主観を強調し、外界の写実的描写よりも内面世界を象徴によって表現する立場。サンボリスム。シンボリズム。表象主義)を、至って軽視する人間なので、想いいれや考えを、モノに託したり、宿したりすることを、相当に避けています。鳩で平和を、王冠で王位を、白で純潔を、結婚指輪で絆を、など、どうも私にはモノやブツに頼っているところがダメなのです。直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること、を目指す象徴主義は、どうもイメージ操作やら、経済効果、そのほかにも政治的扇情や世論操作、その他いろいろに、けっこう頻繁に使われているので、私くらいは敢えて避けてもいいのではないかと思うのです。えへ、あまのじゃくだよね(爆)。

私ですら、宗教的な建築物や美術品には心を動かされますが、そこに魂が宿っているとも思えますが、それがすべてであるとは思わないようにしています。神社仏閣にしか神霊がいないのであれば、八百万の神はどこにいるのか?ネットの上にもいたっていいじゃないか。人々の心の中にいるのであれば、その人のいるところにいたっていいじゃないか。などなど、本当に制限なく、どこにでもいてくれ気分なのです(笑)。それがモノであったり、高位のありがたい僧侶の話の中であったり、建物やシンボルであると制限することのほうが、かなり不自然だろうと思うのです。

では、もうひとつの論点である「参拝・拝むという行為」の本質について。

拝む:(1)神仏など尊いものの前で、手を合わせたり礼をしたりして、敬意を表したり祈ったりする。(2)心から頼む。嘆願する。(3)「見る」の謙譲語。

参拝:神社に行って拝むこと。寺にもいう。

私は、長年アメリカにいたので、この参拝せねば拝むという行為が完成しない、という解釈には、大反対です。心があっても、行かねばダメなわけですか・・・。拝むために、10万以上のお金をかけて、日本に戻り、きちんと神社に行かねば、敬意を表したことにはならぬのでしょうか?腰痛もちには、10時間も座っているのはつらいのよ・・・。それ以上に、寝たきりだったり、足腰が悪かったり、車椅子を使わねば移動できなかったりする人たちにも、みな、この参拝を強要するんだろうか?その人たちが、心の中でしっかり拝むことや、ネットで参拝することや、シンボルの前でなくとも祈る・敬意を表す気持ちを、どう解釈するわけなのよ?

昔からある、お伊勢参りや、巡礼など、お金にゆとりがある信心深い人々がいたことは、それなりに美しいことだとは思います。でも、信心を評価するのに、いかにお金と時間を使うか?を基準にするのは仕方が無いこと?私は以前、セラピーに通う人々は、自腹でお金を払う気持ちがあるだけで、すでに準備が整っているということを書きました。本当に治りたいと思う人たちは、藁にもすがる気持ちで、お金を払うことも厭わないはずだと。多少、神仏に対するお願いや拝むという行為にもコレは当てはまるとは思います。どこを基準点にするのか?と問われたら、「行きたいけれども行けない人に対して、お金と時間を基準にはできないだろう」ということです。

セラピーにしろ、参拝にしろ、お金も時間もあるのに、しかも移動できる身体事情であるのに、タダだったり、ネットでの情報だったりをむやみに求めていたりしているのでは、「本気度」はたかが知れていると思うのです。なので、「物理的に参拝するという行為までの障害が大きく、障害の数が多い人たち」に対して、一概に「実際に参拝しなければ意味がないよ」とは言い切ってしまえないと、私は思うのです。「参拝したい」という人たちの中で、遊びを優先し、実際に参拝せずにネットで済ませている人々に関しては、誰が罰当たりだと思っても自由だとは思います。けれども、そんなことも所詮、誰かが「正しい道を説く」のではなく、自分なりの正しい道を見つけられるように、披露するのが大人でしょう。押し付けて選ばせて強制するのがいいわけがありません。

しかも、神社はこれまでも、確かに電話やファックスは便利に使ってきたんだよね?ここに来て、ネットはダメだと言い出すのは、登録している8万の神社の人たちもびっくりすることでしょう・・・。ファックスでは神霊は宿っていたけれども、ネットには宿っていないなどという解釈は通用しないし・・・。結局、お賽銭が欲しいのか?などという邪推が出ても、文句が言えなくなってしまうんじゃないかと思うのです。騒がないほうがいいんじゃないかと・・・。

ネット参拝でも、ご利益があればそれを「よかったねぇ」と言えるようでなければ、神様そのものが狭量になってしまうんじゃないかと、私などはとても心配です。神様がいるとしたならば、人間の高位のお坊さんや神主さんよりずっと寛大であるはずです。ましてや、遠方の貧しい人々や、仕事で時間が割けない人々に対して、「ゼッタイにお参りしなければいけません」などと言い放つわけもないと、私個人は思うのです。

他人のお参りに関してとやかく言いたい人々は、自分のお願いごとだけではなく、きちんと敬意を表して、謝意を表しているのでしょうか?胸に手を当てて考えていただきたいものです。私は一昨日の初詣でも、昨日の仏壇前での父の慰霊へのお線香あげでも、とりあえず生きていることに感謝させてもらいました。そののち、他力本願ではない、自分が現実化したいことを並べ立て、見守っていてください、とだけ祈りました。「○×しますように」「○×がかないますように」というのは、そもそも私のお参りにはないボキャブラリーです(笑)。

今日はコレから校長センセの著書を読ませていただきます。ささっとすらすらっと読めそうな語彙が並んでいます。楽しみです♪