01/08/2007 にアップした文章です。

 

コレも校長センセの著書からのヒントです。けっこう長いあいだ、人間としてやってきてはいるのだけれども、ここのところにふと気づいてしまうと、相当に赤面する事柄も多いのであった・・・。今回、会社で歯ブラシ除菌器を扱うことになってから、私は必死でいろいろな情報を集め始めたのですが、自分の歯磨きがいかに杜撰だったかを知り、「歯磨きをしていた」だけであり、「歯磨きができていた」わけじゃないのだな、と、厳密な意味を想うのでした。そんなことは枚挙に暇がなく、料理にしろ、読書にしろ、勉強のいろいろな科目や事柄にしろ、挨拶やマナーやその他にしろ、本当に「する」と「できる」のあいだには、暗くて深い河がある感じ>これ、野坂昭如や加藤登紀子やその他の人が歌った『黒の舟歌』の歌詞からなんだけど、知らないよね(笑)。気が向いたら聴いてみてね(笑)。昭和を懐かしんで、歌えたら歌ってみて♪http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kuronofunauta.html あ、でも今日はそんな話じゃありません・・・。

動詞をただ単に言うのと、助動詞の「できる」Can doをつけるのでは、雲泥の差があるのですが、英語を話すときにも、日本人はかなり初歩的な間違いを犯します。「英語が話せます」I can speak English.となぜか言ってしまうのを、私は日本人の9割に見てきました。実際問題としては、「英語を話します」I speak English.でいいのでした。何かをできることがそんなにすごいことなのか?と、意識しているのか?と思いきや、実際は、あまり深く考えないで習慣的に使っているのでしょう。何が話せたら英語ができるになり、どのへんから英語を話すになるのか、考えてみたことがあるでしょうか?

笑い話がありますが、アメリカ人は、日本語の「おはよう」をOhio(オハイオ州)となぜか覚えます。音(おん)で覚えているのですが、それだけでも I speak Japanese.と言っちゃう人がいることに、私は「アメリカ人の心臓には毛が生えている」などと最初のうちは思っていました。が、しかし、I speak Japanese very well(日本語を上手に話します) だとか、I speak Japanese like a native(日本人のように英語を話します)と言っているわけではないので、間違ってはいないのです。むしろ、正しいのです・・・。それについて、気づくか気づかないか、考えるか考えないか、で、物事は大いに変わってくるし、世界は象られてきます。けれども、自分は英語を話すと言うのか、英語を話せると言うのか、で、その人の英語に対する捉え方は見えてきます。

私もどこかで無謀な完璧主義なところがあり、当初、そうですねぇ、1年くらいは I can speak Englishと言っていたようです。ところが、最近はCanという助動詞をそれほど使わなくなっています。許可を与えるときに使っている自分に気づくと、「うひー、私はアメリカ人化した英語を使ってるなぁ」とほくそ笑んだりするのでした。私くらい話すやつが、I can speak Englishというのは、むしろたっぷりな嫌味です。日常にさして支障がなければ、I speak Englishです。仕事を得られるくらい話していれば、I can speak Englishという表現は、プロとしての自覚が足りないとも言えるわけです。だったらお給料をもらうな、あるいは、英語スピーカーより安くても我慢しろ、ということです。

校長センセの著書では、仕事について、を書いてあります。「やる」と「できる」とは書いておらず、「わかる」と「できる」には雲泥の差があるということを詳しく説明してあります。

私は事務処理がたいへんに不得意です。こまごましたことでも、内職形式の手作業は好きなのですが、校長センセの「ファイル作りは究極のビジネスツール」という提案に、ドキッ!としてしまいました(笑)。今日も、『かけがえのないあなたへ』に、商品掲載のコピー&ペーストの仕事があるのですが、かなりげんなり。どこかに電話を一斉にかけるのは、営業としての技能はそこそこあり、嫌いではないのですが、段取りを決めて集中してやることができないこまごました事務処理は、やる気が湧くまでに相当な時間を要します。できないってことではないのですが、かなりイヤイヤ・・・。

ここまでしっかり現状がわかっているので、これに関して、私は「事務処理ができる」とは言えないのです。「事務処理をこなす・やるしかないのでやる」と表現します(笑)。パワーポイントやエクセルにしてもそうで、コマメな何かが出来上がっていくものは、楽しんでやればいいものを、芸術的傾向を表現することが下手で苦手な私は、まだ「やる」と表現し、「できる」とは言えないでいるところです・・・。でもがんばっていますよぉ。西さんが横から取り上げてしまい、そそくさやってしまわないうちは(笑)←よく起きることらしいです(爆)。

「やる」と「できる」の差のバロメータを至って単純に設けるとすれば、「他人にきちんと完遂するまでを説明できるかどうか」です。校長センセが校長センセである所以(ゆえん)は、ここにあります。その行動の目的を理解しており、プロセスが頭の中で描けており、他人に見せるパフォーマンスとして身についているかどうか、が見られるバロメータです。もちろん、行動を終了せねばならぬ、ということもここには加味されます。説明できないけれども、何気なくやっていることは、私の歯磨きなどと同様、実際は「模倣」をして繰り返してきただけに過ぎないのかもしれません。

(なぜ今日はこのお題にこだわっているかというと、春からカルチャーセンターの先生になるので、やはり私もかなりマジなのでした・・・爆)

疑いがある方は、お風呂掃除でも、卵焼きの作り方でも、単語帳の作成でも、何でもいいので、思い描いて、他人に説明することを想定して、やってみてください。特に、手足を使うものに関しては、「アレを」「コレを」「その丸いやつを」などと、かなり曖昧な言い方をしているに違いありません。パソコン教室などを兆候しておもしろいのは、結局は「操作の手順」を習っているだけで、構造や理由などはまったく習得していないのが現状なのが見てとれることです。意味がわからなければ、どうしてそうするのかもわからないし、問題が起きたときにも解決はできないし、できない理由もわからないし、結局は芯から身につかないことになるわけです。そこで、「やる」と「できる」には、歴然とした差がついてしまうわけです。

特に、高等技術でもなくなってきた車の運転などがそうです。私は、オートマチック車を生まれて初めて所有したのが、わずか5年前でした。16歳で中型二輪を、18歳で普通車の免許を取って以来、「オートマに乗るくらいなら、遊園地でゴーカートに乗っていたほうがいい」と豪語していたほどで、最初のうちはまったく張り合いのないものでした。左足がどうも暇すぎるのです(爆)。間違って使ってしまわないように、左足を折りたたんでシートの下に入れ込んだこともあるほどでした。シフトチェンジをする理由や、チェンジをすればどうなるか、目的は、などを身体だけではなく、頭でも理解してきたために、どうもオートマに頼れなかったのでした。今でもチャンスさえあれば、シフト車を手に入れたいと思っているのですが、「納車まで待ち時間が長い」というのがガン・・・。でも、次回はちゃんと待ちますぜ・・・。サーキットランをしていた頃の血湧き肉躍る頃が、まだなつかしいってのはどうなんでしょうね・・・。

私は、「やる・こなす」として日々ごまかしていることが多いことをかなり自覚していますが、みなさんはどうでしょう?「できる」と言えるのは、かなーり難しいのです。