02/03/2007 にアップした文章です。

 

校長センセがコメントでくださった言葉です;気のもちよう。これについては、遥か昔のエッセイに書いたことがあります。西さんとこの語彙でかなりの言い合いをしたことがあり、今は我が家では「禁句」になっている言葉です(爆)。そりゃぁ、私が怒ると西さんは、最初は悲しんでいたのですが、今は怖いらしい(笑)。これには母も絡んでおり、けっこうな長い歴史がある言葉なのです・・・。かと言って、校長センセをやりこめる目的はまったくなく、ここに至るまでの経過を淡々と書きたいと思っています。

気という言葉そのものが、あまりに便利な言葉で、ピンポイントできていないことが、論議の端緒となります。琴線に触れ、相手とのブレが生まれる言葉を総称して、私は「便利すぎる言葉」と呼んでいますが、これもそのひとつ。気、もそうですし、もちよう、もそうです。

気:(1)生まれつきもっている心の傾向。性質。性格。(2)物事に積極的に立ち向かう心の動き。意欲。(3)物事に引きつけられる心の動き。関心。(4)物事に対してもつ、または物事に影響を受けて変わる感情。情緒。(5)外界を認識し、外界と自分との関係を理解する心のはたらき。意識。(6)物事をうまく運ぶために、状況を的確にとらえる注意力。配慮。(7)物事をなしとげるために心を支え動かす力。気力。(8)ある物が含みもっていて、その物を生かしている目に見えないもの。特に、味わいや香りをいう。(9)目には見えないが、空間に立ちこめているもの。精気。(10)その場に広がっている感じ。雰囲気。(11)(連体修飾語を受けて)(ア)これから何かをしようという気持ち。つもり。(イ)実際はそうでないのに、そうしたような気持ち。つもり。(ウ)その時々の心の状態。気持ち。(12)漢方で、血(けつ)とともに体内の経絡を循行する生命力の根源とされるもの。無形であるが、有形の血と一体となって生理機能全般をつかさどるとされる。→血 (13)宋学で、「理」が万有を支配する原理であるのに対して、万物を形成する元素を「気」という。〔「こころ」という語が精神活動を行う本体的なものを指すのに対して、「気」はその「こころ」の状態・反応など現象的な面をいう傾向が強い。「気は心」という言葉も、表面的な「気」のはたらきは本体としての「心」の表れであるという考え方に基づく

様(やう):(1)ありさま。様子。すがた。(2)決まったかたち。様式。(3)やり方。方法。(4)事情。理由。わけ。(5)同様。同類。(6)(形式名詞的に用いて)(ア)発言や思考の内容。こと。(イ)発言や思考の引用を導く言葉。…こと(には)。(7)動詞の連用形の下に付いて、複合語をつくる。(ア)ありさま、様子などの意を表す。(イ)しかた、方法などの意を表す。(8)名詞の下に付いて、複合語をつくる。(ア)様式、型などの意を表す。(イ)そういう形をしている、それに似ているなどの意を表す。

広辞苑を見てもらってもわかる通り、大変に広い範疇の言葉で、人それぞれのブレが大きすぎる言葉なのです。特に、他人が苦しいときやつらいとき、にっちもさっちも行かないとき、答えが明瞭に見つかっていないときなど、「それは気の持ちようだよ」と言われるとつらい。セラピストはコレを鬱病のクライアントには言ってはいけないことになっています。その持ちようを改善するために通っているわけですので。

我が家でのコトの起こりは、西さんが母に慣れ、好きになり、離れて暮らしていても彼女の話題が出るようになったあとのことです。「きくみも少しはお母さんを見習ってみたら?楽天的になればいい」と言ったのが発端です。私は基本的には楽天的なのですが、おそらく、類稀なるほどに楽天的にもなれるのですが、楽天的になってはいけないことに関して楽天的にはなれない。女優ではないし、その場限りの逃げはできない。「連帯感」のコメント欄にも、振幅の差が激しいと書きましたが、私の感情の差異の幅は、おそらく基準よりも幅が広いのだろうと思うのです。

遺伝子でもらった躁うつ病ゆえに、これは自分の行動修正をしても、追いつけるほどのものではなく、幅を狭める出来うる限りの努力はしてきたはずが、実際にはこうなっている、という哀しい状態だと思います。そのために、パイロット路線を方向転換した折には、心理学を選んだのだし、あらゆる人々の話を聞いてきて、実体把握には予断がなかったつもりです。私の場合は、いつも薬が必要ではないほどのそもそもの状態で、「健常な脳の動き」とはやはり歴然と見た目に違うほどの症状を呈しています。子どもの頃からです。ただし、ひどい躁やひどい鬱も定期的に現れ、それは環境からもたらされる事件や気候やその他によって左右されます。そんなときには、死なないために薬が必要になったことが、今まで3回ほどあります。投薬されてもギリギリまで飲まないで済んだことは、他に10回ほどあります。ただ、手元にあるだけで生きるための保障をもらった気持ちになれて、それはそれでたいへんに効果が上がりました。

躁状態の時間のほうがずっと多く、他人様より物事すべてをこなすのが速い。複数を常にこなす。ゆえに、たいへんに楽観的な傾向があり、自己反省をする暇がないほどなのでは?と疑われるほどです。しかも、それぞれのTask(課題)は基準点以上にこなせるようになっています。ゆっくりしなければならない状態に追い込まれたとき、たとえばお風呂に浸かる行為だとか、授業を聞くとか、車の運転をするという、他の行動とコンバインできなかったり、しにくい行為、できることが限定される行為となると、ひどく悲観的になりやすくもあります。すとーんと落ちる。さらに、最も危険なのが、それまで躁状態でしゃかりきに廻し続けてきてしまっていることと、睡眠不足。まだ脳は元気なので、自殺したくなるほどのすとーんとした奈落が待っているわけです。習慣や規律を意識で来ている範囲で過ごしてきていれば、単にぐったりと疲れており、ただただ休息を求めるのみになり、たいへんに濃い休息が得られるわけです。そんなときには、物事を悲観する傾向は強くなっていたり、一切、ナニモノも進入することを許さぬほどの拒絶になります。ですから私は、ひとりでベッドに寝たいし、ネコたちすら私を起こそうとしないことになります(長年で躾けてしまったわけではなく、ネコたちの自発的行為なのでココが美談・爆)。

これが前提。が、ただただ私の勝手な事情です。けれども、私が望んでこのように生まれたわけではないし、健常者に見えてしまうのでしてきた苦労は大きいのです。

私がこの説明を何度かしたはずにも拘らず、やはり自分のことでもなく、これまでそんな状態を見たこともない西さんは、かなりの回数、「お母さんみたいになればいいじゃない」を連発しました。その後、「できない」と言い張る私に、「それはただの気のもちようだよ」とも。西さんは私のスーパーハイパーを放置しておくこらえ性がある人でしたからよかったものの、それでもやはりその振幅には戸惑い、何より悲観を不便だと思ったようです。西さんとのあいだも、躁うつ病がもたらした不協和音は5年ほど続いたでしょうか。他のことに関しての問題は、すべてコレに帰結するような状態でしたか・・・。

「これまででできること、思いついたことはすべてやってきたんだよ。だからまだ勉強もしてるんだよ」と、泣き叫ぶほど元気な私を見たあと、西さんはもう二度と「お母さんみたいになればいいじゃない」「気のもちよう」は言わなくなりました。確かに、「気のもちよう」はPlacebo Effect(プラシボ効果;信じれば偽薬でも効果が出る)があります。が、これ以上努力しようがないときや、闇にうずくまっているときには効果がない言葉です。

が、私は健常者と混ざって投薬たまに、でも生きていける精神病ですが、福祉手帳の2級か3級がもらえます。私はもらうつもりもありませんし、もらおうと思ったこともありません。当然、今では「気の持ちよう」と誰に言われても傷つくこともなければ、「そうだなぁ。健常なときには気の持ちようだよなぁ」と思えるほどです。昔ですら、親友や西さん以外の人に言われても怒りませんでした。一昨日も、母は私のことを「変人」となじったので、「もらった遺伝子が原因でそういうところがあるんだから、少しは反省してよねっ!」と言えたほどです(爆)。

日々の言動は本人に責任があることのほうがやはり多いですが、下地になっている抗いがたいものがあるかもしれないことを、いつも見てやってくれるゆとりがあると、この世はもう少し温かいものになるかもしれません。が、楽天的な母は、皮肉をこめて「人はみんな、あたしを含めて、自分勝手なのよ」などとしたり顔で言います(爆)。