02/11/2007 にアップした文章です。

 

優待遇による堕落、定着してしまったステレオタイプの難に喘いでいるNative Americansについて、で、昨日は終わってしまいました。今日は、昨今のその歩みについて。これを読めば、日本人が抱えている、あるいは個人レベルで抱えている、「外から押し付けられたイメージ」について、解決のヒントが生まれるかもしれません。イメージってやつは、本当に厄介です。一部事実であるがゆえに、まったく丸ごとを払拭するのは、たいへんに難しい。そう感じている方々も大勢いるはずです。山本周五郎の貧乏な市井の人々は、たいていそう感じつつ生きています。

Native Americansたちもまた、根源が遡る多くの要因に喘いでいるわけです。常日頃、私が手を替え品を替え、書こうとしている「多数決のマジック」「民主主義のひずみ」「イメージの功罪」「公平さのない論理」などです。彼らは好きでNative Americansに生まれたわけでもないし、ひとりひとりが自分の意志で選択できた現状を歩んではいない。たまたまその時代、たまたまその局面で、たまたまこの軸を考えて、たまたまいろいろな人の目に付き易い点(複数)を鑑みて、不利だったり有利だったりすることについて、バカげたパワーゲームを展開しているに過ぎない、と私は考えています。

無論、人情としては、Self-esteem(自己尊敬心)を高めつつ生きていくに越したことはありません。それが自分や自分が大切に想っている人たちであれば、それはとても充実した人生でしょう。が、カードゲーム(トランプ)と同じだと考えてみてもらいたいのです。ポーカーで言えば、ハートのロイヤルストレートフラッシュを引いたあなたは、たまたまなのです。あと20年違っていたらわからない。そのテーブルについていなかったらわからない。そのメンツでその人数でゲームをしていなかったらわからない。そもそも、そのポーカーをしようとしなければわからなかった。

そういった事故性、アクシデントが多々重なり、人々は現状にいます。自分の言動については自己責任を徹底的に問えますが、生まれ持ってしまった自分のコントロールを超越したもの(Beyond One’s Control)についてまでも、責任を問う馬鹿げた話はいくらでもあります。

Native Americansのストーリーはこうです。諦めきっていた自分の土地にお金という値で、思いがけなく保障があった。しかも、この先、この土地に留まっていれば、補償金を毎月分割してもらえるという。が、この土地には、外界の情報を遮断されがち。仕事も部族のためだけのもの。人間の甘えや怠惰を助長させるものだけが積極的に取り入れられ、勤勉な努力を必要とされるものは結果が出ないがゆえに、どうも定着しない。約束をしてくれ、学校や病院を建設してくれるといったものの、実際の実情は外界と比べるとどうも充実していない。部族語も英語とごっちゃになってきたし、どうも外界の主流に「合わせろ」という圧迫感のせいか、子どもたちの将来のためには部族語は控えたほうがいいらしい。陶芸や民芸品についても同じことだ。小銭ならばある。が、手慰みの仕事はお金にならない。しかもそれは文化的恥で遅れているものだとなじられる。いったいどうしたらいいのだろう?つまらない。時間はたっぷりある。酒やタバコはうまい。アル中の遊び人になってしまったようだ。どうしたらいいんだろう?

こんな話を聞いて、自分だったらどうだろうと問いかけてみませんか?むろん、アメリカ連邦政府も、これまでの謝罪を形あるもので償おうとしたのだろうし、その誠意に疑いを挟もうと思えば、個人レベルであれ、組織レベルであれ、余地はいくらでもあります。受け取る側にしても、学ぼうという意志が確固たるものではなかった、と責めたてることもできます。が、そもそも、彼らはみな、そんなパワーゲームというポーカーがやりたかったのだろうか?少なくとも、私は積極的に参加したくはないがゆえに、こんな人生を選び取っています。なかなかすべてのパワーゲームを避けることは叶いませんが、できる限り回避しています。

80年代以降、Acculturationという言葉は消え行くべき認識となりました。主流の文化に則して亜流を捨て去り迎合する、というのは、もうあるべき姿ではなかったのです。支配者-被支配者、抑圧者-被抑圧者、主流-亜流、などというパワー構図は、倫理的に正しいとは認められなくなりました。『人種のるつぼ』(Melting Pot)という言葉の代わりに、『トスサラダ』(Tossed Salad;具材がそれぞれの個性を保ったままごっちゃに盛られているサラダ)という言葉が登場しました。それが、Thomas Jefferson他のイギリス哲学者の流れを汲む見識者たちが草稿した、アメリカの独立宣言に則ったことだったのです。が、建国以来、160年もの時間を費やし、やっとここまで漕ぎつけたわけです。

Native Americansのそれぞれの部族では、将来を憂慮した人々が、主流に抵抗するためには相手のおなかの中から、という認識で、一握りの優秀だった人材が外の世界に出て、弁護士や医者、ビジネス学位などを携えて戻り、子どもたちの将来にさらに備えるようになりました。異部族や異民族や異人種の人々でも共感者をたくさん得て、その草の根運動的努力は今に至ります。部族語と英語の2言語での基礎教育が行われ、優秀な人材を育てる準備ができた居留地もたくさんあります。居留地からいつ出て行っても生き延びていけるだけのスキルを持てるように。心ある人々は戻り、貢献し、還元し、同胞たちの未来に想いを馳せます。

非難され低い評価だった文化にも注目が集まるようになったのは、ある一廉の人々が台頭し、努力したからです。美術もそうですし、技術もそうです。近頃では、Navaho族の毛生え薬が日本でも注目されているようです。アロエにしたってそうですもんね。

さらには、カジノ運営の認可を受けやすくなっているのが、Native American 居留区で、カリフォルニアだけではなく、全米のたくさんの地域で、他の人々が訪ねていき、そこにお金を落としていくことになります。が、つい最近までは、「アルコールが出ない」という弊害があったところも多いのです。居留地には酒屋がなく、バーもなく、販売や売買をすることが禁じられていた名残です。が、ここでも目に余るのは、小さな部族の居留地で、鋭い人々がいないことにつけこむ企業のマインドと倫理観です。そうならぬよう、州単位での目を光らせているのですが、合法的でありさえすれば、なかなか「潰す」というわけにはいかないようです。映画では、これが舞台になっているのが、Reindeer Games http://www.imdb.com/title/tt0184858/ ここでも、多少のステレオタイプの名残が見られます。私個人は、そういう理由で、カジノに行くときには、Las VegasやRenoに行きます。ひとり不買運動の延長です(笑)。

私も、実際には、子育てでは「放置」「放任」「虐待」よりは、「過干渉」「甘やかし」のほうに問題が大きいと考えています。なぜならば、苦境に喘ぎ抜け出したいという意志を磨くよりも、生ぬるい実益がそれほどない暮らしのほうがラクであるがゆえに、進歩もないまま、後退し、個体の能力は伸ばされぬまま、社会性を欠いていくからです。生活は自ら落としにくい。これはよく言われることです。お金がなくなってしまえば必死に働くこともありましょうが、ある人がこつこつ努力することは難しいことです。不可能ではないので、律して暮らしている人々の人品については美談となり、それが業界紙などでは「だからこそ大きな会社を束ねられる」などという記事になります。

なので、社会性を持ちつつサバイバルをするには、自立と自律が必須です。誰かのせいにするのは簡単ですし、誰かに影響されるのも簡単です。それがわかっていてもどうにもならないこともあるのが、人生のおもしろさですが、ある人々を指しての傾向のあげつらいを、私はあまり快くは感じていません。Native Americansもまだまだこれから苦労を続けます。汚名返上までに、どのくらいの歳月が流れるのでしょうか。少なくとも、私にとっては、彼らには返上するべき汚名はないと、きっちり記しておきます。