02/12/2007 にアップした文章です。

 

いやー、またもや陽さんとの問答が、コメント欄で始まってしまいました(笑)。私は差別をやめよう行脚や推進委員をしているわけではなく、ただ、幼稚園のお砂場で習った通り、「自分がされてイヤなことは他の人にもしないようにしようね」ということを、忠実に守っているのです。自分が「日本人だから○×」と言われてイヤであれば、やはり「あんたはナニジンだからこうでしょ」と、推測ばかりを先行させるのはよくないであろう、ということです。警戒するということは、縁を薄くすることに繋がります。どんな人がどんな幸を運んできてくれるかわからず、どんな人がどんな勉強になる機会を与えてくれるかわからず、だからこそ人生はおもしろいのです。なのに、ナニジンというくくりにこだわるのはなぜなのか?どうもわからない・・・。

文化人類学や、文化心理学でも習うのが、National Characteristicsです;国民性。国民全体における傾向というものです。ただ、それは笑い話の範疇でしかなく、みんなに当てはまるわけでもないことは、占い等ですでに証明済みです。姓名判断や手相、占星術など、ほぼすべての占いは、統計学から成り立っています。μ(全体の平均値)を国民性としてしまっていい、とする人もいれば、それに抵抗感を覚える人たちもいます。なので、当然、占いを信じる人がいてもいいように、国民性を信じる人がいてもいいのです。ただ、私は信じないし、人をスクリーニングするのに、大きな要素の中のひとつ、参考資料にしか過ぎず、警告を受けるほどの大げさなことではないとみなしています。

頑な:(1)意地を張って自分の考えや態度を変えようとしないさま。頑固。一途。(2)ぎこちなく見苦しいさま。不体裁なさま。

うーん、こう辞書を見ると、やはり私は頑ななところが大いにあるようです。しかも、見苦しいと来た(爆)。

山本周五郎が好きな理由にこんな彼の頑なさがあります;「人間の生涯は、いかに生きようとしたか、なのだ。いかに生きたかではない」

志していても、思い通りに行くわけがなく、愛する人を深く愛していれば、しがらみが多ければ、さらにその確率は減ります。恵まれた環境に生まれ落ちれば、持って生まれたものが満ちたりていれば、能力があれば、引き合いがあれば、見目麗しければ、など、いろいろなIfがそもそもついていれば、思い通りにいくことも多いかもしれません。が、いつも高潔に高邁に生きていける人々ばかりではないので、私はさらにそれに憧れるのでしょう。ぶざまに必死にあくせくしつつ、心持の実際は、「真理か、生きることか、二つに一つを選べというなら、生きることをとる。それから一度捨てた真理を、泥まみれになって拾い上げる」なのであり、ひっちゃかめっちゃかになりつつ、惨めでどうしようもなくなって、いつも自分の真理を裏切らないように、と汗だくでいるのが実情。

私は話せない過去は持っていないつもりですが、相手のあることについては秘して語らないようにしています。が、許可を取れるものであれば、すべて語りたいところです。その中で、私が自分でわかっていたはずの真理を捨ててしまったことが、二度あります。その後、必死に拾い上げて、まみれた泥を払いのけ、清め、また大切にしました。敗者復活戦を信じることは、最初の頃は無理でしたが、なんとかズリ上がってこられたようです。

だからこそ、他人の過ちに対して寛大でありたいと思うし、不遇に対しても理解を示したいと思うのです。が、強者だけを責めていればいいわけでもなく、そんな上など見ずとも、回りだけをしっかり固めていければ、と。いや、すべては繋がっているわけですから、まったく見ないわけにはいきません。見えてしまったものを見なかったものにすることもできません。パワーゲームに参加ゼロというわけにもいかず、どこまでならば足を踏み入れても恥じずにいられるか、自分と他人を同じように扱えるのか、を考えながら、日々を細々とやっています。

現実逃避が横行しています。私も、大掛かりな現実逃避をしました。アメリカに出たことです。が、私が日本人であることや、過去や、育てられ方や、親や友人やしがらみなど、全部がいっしょについてきました。逃げられるわけなどなく、私が敢えて意志を持ち、根本的なことを変えていかねば、それに応じて物事が変わるわけもなく・・・。逃げた人は、やはり実在している山積された問題とは、いつか嫌が応でも対峙せねばならぬときが来ます。もしも、その時がこなかったとしても、死がたまたま先に来てしまうだけのことでしょう。

自分が手をつけてきた問題ですら省みることなく、逃避することが多々あるというのに、自分の未知だったり、充分に知らなかったり、偏った意見を聞いたりしたことについて、見聞や資料不足で言及することが、果たして何を生むのか?というのが、私の素朴な疑問です。全体図について憂慮する職業の人々はいたほうがいいですし、いなければ手落ちです。が、その全体的統計の解釈に左右されるほうが怖いと、私個人は思います。

誤解をされやすいのですが、私は日本を愛しているし、日本語も大好きで、日本の文化のほぼすべてが好きで、自分の中にそれらが息づいているのを感じながら暮らしています。特に、日本人であることを売りにする必要がないので、アメリカでは、I am Japaneseとは宣伝しないだけのことです。聞かれて嘘をつく必要もなければ、誰にも尋ねられないのにこちらから言う必要がないという程度の資料です。年齢もそうだし、学歴もそうだし、生まれ育ったところも同じです。犯罪や危機について語るのであれば、国別よりももっと注目したほうが有効な要素があるのでは?と思えているわけです。

台湾人を特に好きなわけでもなければ、アフリカ人の中で好きな国に順位をつけようとも思いません。熟知したふりをして語るほどに知らないですし、決め付けることほど愚かなことはありません。好き嫌いで物事をくっきり分けることはしたくはないし、されてイヤなことは私もしないのです。アジアの中で日本が特に好きだと言ってくれる人はこれまで何人かいました。が、分別のあった彼らの理由は、「たまたま軍で日本に住んだことがあるから」「前のガールフレンドが日本人だったから」「日系人の近所に住んでいたから」などと、やはり感情と論理をまぜこぜにすることはありませんでした。私もそれを見習い、国によるステレオタイプにはタッチしないように、と考えています。

犯罪から身を守ることは大切です。が、警戒も、過剰はやはり適度ではないのです。不足が適度でないのと同様、です。だからこそ、「中庸」という言葉が尊ばれるゆえんになります。その代償が、自分と同じだけ尊いはずの、品位があるはずの人間たちを傷つけることになるのであればなおさらのことです。

さらに、私は以前から、犯罪者や過ちが過ぎた人や、能力不足だとみなされる人々についても寛大です。私がそうであったし、これからもそうですし、完璧などには何度生まれ変わってもなる予定はないからです。理詰めは大好きですが、それで人の心の一部を大きく殺すのであれば、私は、すっぱり理は捨てます。死刑執行はしなくていいと、今でも信じているし、生かしておいて変化を見てほしいと思います。私もまた、あらゆる人から赦しを得、生かされているという実感があるからで、人を裁き弾劾する立場にはおれないからです。

コピー・パクリ問題についても、中国人・香港人・韓国人・台湾人、その他の国の人々と、私は同じように語りました。あなたの国の人々が、とは言いません。国別問題ではなく、現象やヒトという生命体のモラルのほうが根源にあるからですし、彼らはその国代表ではないからです。国を背負って立つなどというおこがましさは、一体どこから生まれるのか?そんなすごい人に、私もいつかなれたら、と思いますが、できないことはわかっているので、あくまで憧憬として大切にしています。

長くなりましたが、コメント欄もすでに長いもので埋まっています(笑)。陽さんの賢さは必見です。彼が冷たい人間で私が温情的なわけではなく、彼のほうが私よりむしろずっと公平さを欠かない人間で、根本的にはそれほどの差はありません。あしからず。