02/14/2007 にアップした文章です。

 

不快にさせてはいけないですが、特に好いていただかなくとも、私は放置してもらえたほうがいいかも、と思う傲慢な人間だとすでに書きました。それは、クダクダと理由を羅列しましたが、明瞭ではなかったようなので、もう一度、手を替え、品を替え、で書いてみます。なんでこんなにこの一事にもこだわるのか?そりゃー、これをやめちゃうとラクだからなんですよ。縛り、いわゆる呪縛のようになっているかのように行動規範を持っている人は、「人に好かれたい」「嫌われたくない」という意識が働いていることが多いです。傍目に見てわかるくらいですから、本人は相当につらいことでしょう。が、慣れになっていて麻痺してわかっていない場合もあるかもしれません。

好き:(1)心がひきつけられること。気持ちにぴったり合うさま。⇔嫌い (2)片寄った好み。また、物好きなさま。(3)色好みであること。(4)思いのままであること。気ままなこと。また、そのさま。

いわゆる、人に好かれるということは、人の心を磁石のように引き付けているということで、なんだか自分の身体から目に見えない磁気だとか光線とか雑菌とかフェロモンとか、出ているような絵柄を思い浮かべてしまうのは、私の子どもの頃からの悪い癖です(爆)。

私はわざと人に嫌われるようなことはしませんが、人に嫌われてもいいと思っています。なぜならば、人間関係というのは七面倒くさく、だらしないっ!私にはたいへんに煩わしいことだからです。私がたいへんに傾倒している美徳を持っている人や、いっしょにいると心が洗われる効果を持っている人や、太陽電池のようなパワーをくれる人、などなど、好きな理由はたくさんありますが、そんな人とは、私が多少苦労をしようが、おつきあいを願いたいと思っています。が、最終的には、私が自然体でいなければ、相手がそれを受け容れてくれなければ、長続きはしないことはわかっているので、もうこんな歳になって苦労を無為に重ねることはなくなりました。

礼儀・作法・マナーというのは当然のことで、相手にできうる限り心地よくいてもらうというのは、好かれるためにやっていることではありません。それは、社会動物として生き延びるためのスキルのうちに組み込まれており、それが心を伴い、本気で真剣にできるようになるために、子どもの頃に躾けられるわけです。そうすれば、物事が円滑に行くことを学び、ルールを身につけ、わざと故意に人を思うままに動かすのではなく、自由意志を持つ人々の中で、相手の権利を尊重している誠意を見せるためのものです。でなければ、相手にも自分の当然の権利を損なわれるチャンスが大きくなるだけのことです。

個人差がある不愉快な行為については、特に気にすることはないです。笑ったのは、スパゲッティをスプーンの上でクルクル丸めて食べるあの不思議な作法。あれが正式だと思っている人が未だにいたら、「もう苦労はしなくていいんだよ」と言ってあげましょう。が、好きでやっているのであれば、その人は輸入されたエセイタリア文化を実行しているので、その人の好き勝手です。放置しておいてあげましょう。

まずは、このマナーは大前提。

が、一般的なマナーや行儀作法だけではなく、なるべく多くの人に好かれたいと思っている人、少なくとも嫌われたくないと思っている人は多いようだ。私などは、若気の至りがはみ出ていた頃には、「嫌われてナンボのもんじゃい」と思っていたほどでした(笑)。あー、クソ生意気な小娘だったこと・・・(自嘲)。

そして、その姿勢は未だにあまり変わっておらず、他人の神経を逆なでするようなことを、故意にやるわけでないのであれば、私らしく振舞うのが最もいいのだと、今でも心から思っています。結局、私を苦手な人のほうが、この世には多いのだろうし、多くなければ、私は凡々と他人との差異を作らずに歩んできてしまったことにも解釈できてしまうし、多数決・民主主義を最も尊いと信じているわけでもあるまいし、私を苦手な人が私をScreening(ザルにかける)してくれることで、私のほうがイヤな気分になってこちらから高飛車にザルにかけることもなく、なんだかいい塩梅です。

それにねぇ、自分が好きだと思う人が、同じくらいだけ想ってくれるのがやっぱりいいですよ。そうそう。それがストーカー問題の始まりだから、と思うのです。好きでもない人から好かれるというのは、あるいは、負担なほど想われるというのは、やはり問題です。

ストーカー:特定の他者に対して執拗につきまとう行為を行なう人間を指し、その行為はストーカー行為あるいはストーキングと呼ばれ、典型的には、特定の異性に対して好意または怨恨を抱いてつきまとい等の行為を繰り返す者のことである。

人は社会生活をしているので、いつも試されているというのは事実なのですが、実際には、「それほど親身に想ってくれている人は少ないし、人生が変わるほどの+も-も他人から来るとは思うな」と、私は考えています。恩義を受けた過去があり、それにより引き上げてもらえた私が、このような中途結論を持っているのも、相当におこがましいのですが、(どうでも)いい人というのは、どんなにいいことをしても評価してくれないし、見ようともしてくれていないのが現状です。みんな自分のこと、自分の近辺のことに精一杯なのよ、基本的には。

確かに、ご近所づきあいの噂で引っ越さなければならないほど追い詰められるようなことも、実際にあることでしょう。が、それは、本当に自分がマナーや礼儀作法を失していなければ、いくらでも対策はあるはずです。偏執的で、暇すぎて、他人のことばかり追いかけている人というのは、確かに実在しますが、興味本位だったり、感情的に過ぎたりするので、対策があることのほうがずっと多い。それに、無理をして繕っておつきあいをしても、いつかボロが出たり、金箔は剥がれてしまいます。

私が考えるに、自分のことをきっちりできる人々が、足りない物事を補い合って生きていくのが理想なので、自分が好きだと自然体で生きている人のありのままを受け止めて、腹を割った話ができる時間を増やしていき、そこで結果的にその人を好きになれればよし、好かれればよし、で、順番が違うようでは、疲れてしまうことでしょう。

朝っぱらから、フルメイクをして、きりりと職場や幼稚園のバスのお見送りに出かけるのは、自然体なのでしょうか?誰かお客様が来るから、普段よりは豪勢にしたりきれいにするのは、マナーの範囲だとしても、分不相応なほどにするのも自然体ではないです。

むしろ私は、気を使ってもらいすぎて、何かしてもらうことのほうに、誰かの家に行くと恐縮して、居心地が悪くなり、お暇(いとま)したくなってしまいます。私のほうが天邪鬼なのかしらね・・・。好かれておらず、早いところ帰ってもらいたい雰囲気くらいはわかります(笑)。未練なく飛び立てるので、それを「がーんっ!」とつらいと受け止めることもありません。世界には、65億人弱くらいの人間がひしめいているので、そりゃー、私のことを苦手だったり、嫌いだったりする人がいたって、いいわけです。「あの人には死んでもらいたい」とまでおっしゃる方がいたとしたならば、「見えないようにするんで、殺さないでね」と頼んでみましょうか(笑)。