03/04/2007 にアップした文章です。

 

偏見が混ざることは承知で、学術的まとめをしている人々がいないのですが、それはあくまで素人ちっくなアプローチだからです。まったくのところ、学術的論拠はありません。ご承知おきください。旧くから、オオカミ型かヒツジ型に分けたり、キツネとタヌキのほうが有効だとしたり、比較には枚挙に暇がありません。なぜこんなことをしようとするのか?のほうが、おもしろいとは思うのです。物事をたくさんの言葉を費やさず、象徴的に話すには便利なのかもしれないです。ご存知のように、私はシンボリズムを嫌っております(笑)。

こちらではなく、Beginningのほうにアップしたエッセイに書いた通り、私はどちらかをなぜ選ばねばならないのか、という疑問をいつも持っているのです。選ばなければ地球が滅亡するわけではないのに、刃物を突きつけられて選ばされているわけでもないのに、どうしてか、人々はさして肝心でもないことまで選んでしまう・・・。http://kikumipastessay.seesaa.net/article/16412862.html#more (ネコと犬、どっちが好き?)なので、これらは、人というのを分析するいいツールにはなることは覚えておきましょう。

すでに心理学界の通念として証明されているように、社会性を発揮させながら生きている生命体は、「自分に似ている物事・人・動物」が好きです。もちろん、これは統計学なので、3割ほどの人がこれには当てはまりません。なので、日本語の表現にも、「似たもの夫婦:夫婦は性質や趣味などがよく似るということ。また、性質や趣味などが似ている夫婦」もあれば、「蚤の夫婦:〔蚤は雌のほうが雄より大きいのでいう〕妻が夫より大柄な夫婦」という逆説的なものも存在するわけです。国際結婚も増えてはきましたが、3割には到達しないのでしょう。これは、「相手のどこを見るか」の入り口が、同じ・違う。の大きなものですが、まだまだ違ったものを受け容れる社会と受け容れない社会の差が大きいことを暗示しています。

この理由は何か?おそらく、「慣れる」「学習する」「理解する」「把握する」などの、知的作業への段階が、同じほうがラクだからです。生き延びるために、エネルギーをなるべく必要ではないところには使わない。単純なつくりにできている生命体になればなるほど、この傾向は強くなります。ちょっと攻撃的ですが、「似ている人を好むばかり」という方は、せっかく持っている脳をあまり存分には使っていないかもしれない、という推論が立ちます。恋や友人関係などについての好き嫌い、国際結婚や異人種間についての論文はいくつか出ていますから、この結果と、性格や能力テストなどで、充分証明は可能な事柄ではないかと思われます。

ある人が「賢い」と言われても、ある一方面に対してだけの賢さであれば、家庭はラクなほうがいい、と、何も考える必要がないパートナーを選ぶことも多いことでしょう。「自分の手に負えない」パートナーがいいという人は、もしかすると仕事ができないかもしれません。が、すべての分野において、チャレンジングで、知的作業をますます要求される対象物に果敢に挑むのは、かなりあっぱれです。

人を見るときには、こういう見方もできるわけです・・・。ちょっと深読みしすぎて、自分でもうんざりすることはあるんですけどね・・・。

この同じものを好きな傾向の理由のふたつめは、Self-Esteem(自己尊敬心)を高いところにキープしておくためです。こちらのほうが心的理由なので、ちょっと複雑になります。自分に似ている物事・人・動物などの対象物を肯定する、あるいはもっと積極的に褒めるということは、すなわち、自分の中にある、ある要素を褒めていることになります。自分のことを褒めてそれを直截的に表現するのは、あまりに露骨なので、もっとも簡単な昇華的方法としては、自分に似ているものについて褒めます。好みます。でなければ、高いところにSelf-Esteem(自己尊敬心)を保って置けない、という人はかなりたくさんいるのです。

そこまで行かずとも、ある物事や人・動物などの美徳を、フルに宣伝広告して悪いということはありません。情報を撒くということは、方法によっては、相手によっては、たいへんにパワフルで、意義ある活動です。その中に、自分とはまったく180度違うもの、ということが、あまりに少ないのは、Self-Esteem(自己尊敬心)のせいですが、自分の意見や立場や持っている美徳と違うことすら、情報として冷静に感情てんこ盛りではなく、伝えることができる人には注目の価値ありです。たとえば、生命保険も、お金に関わることですから、それほどおおっぴらに「いい・悪い」の評価などしにくいことです。が、生命保険の意義はあるし、使い方によっては安全と安心を買えるという意味で、本当に役立つ情報です。そこに、保険を生業にしているお友だちや親戚が出ると、話がちょっと大げさになったりして、いいイメージになるのか、表現者としての自分の欠点をさらすのかは、その人次第です。

そうねぇ、もっと端的に言えば、私がここで情報として書いていることも、私の主観だけではなく、データや証拠がたくさんあれば、いい情報になりえます。ところが、主観やフィーリングに重きを置いていると、それに振り回されることになる、ということかな・・・。なので、私もバカのひとつ覚えのように、「最終的には、自分が選択するということが大切なのだ」と、書き続けることになります。私の人間性に免じて、どうか聞いてやってください、が通ることがあるので怖いわけです(笑)。

あ、やっぱり自己批判のひとりSMになりそげ?(爆)私も冷静に、そしていぢわるに、分析をしようと考え始めたのですが、自分にもそんなところはある・・・ということが明らかに・・・。物事が裏目に出てしまっていますな・・・;ひとつめとふたつめの理由が混ざっています。私は、自分に似た人を簡単に褒めそやすことはありませんが(ほんと?爆)、しかも露骨にやることはありませんが、どうもその美徳というものが複雑で説明しにくく、知的作業が必要になると、例や喩えで済ませてしまおうとする傾向がある(爆)。たとえば、「べつにぃ、他人に好かれなくたっていいじゃん」「1日に何時間かはひとりでいたいよぉ」という気持ちを、ネコに喩えてしまえばわかってもらえるだろう、などと、前説をあまりなしに使うこと・・・。当然、コレもネコより犬がゼッタイ!に好きという人が読んだら、逆効果なわけです。そもそも、私が犬よりネコが好き、だという人間だと誤解されたところから発展していくからです。うーむ、すでにそこが間違いなのですが、そうは取られがち。上記の2個めの理由からそうなるのですから、しかもそれがわかっているのだろうから、私も1の理由でこんな喩えは使わないほうがいいのです(笑)。だらしない、ズボラ、ものぐさ、ってことなのよ・・・。トホホ。

でもねぇ、若い頃、音楽を知らなかった私は、「ミック・ジャガーって人は、日本の矢沢栄吉のスケールが世界的版」などと単純に喩えられて、「なるほどねぇ」などと思ったクチなので、いけません。頻用してしまいます・・・。これも、シンボリズムを嫌いながらも、使っている、ご都合主義のいい例です。自戒、自戒・・・。

2つめの理由で、私は喩えを使うことはないと言い切りたいところですが、自分にはそのつもりはまったくないのですが、やはり微かにあるのかもしれません。

さて、ご自分が犬型かネコ型かを語るときにも、こんなことを頭に掠めさせてみてください。まずは、分類や類型に頼るズボラでラクな思考を選んでいないか?(おいおい、コレは私だよ・・・)次に、自分に似ていないものを愛する3割のほうに自分は属しているのかどうか?私はそうなのよね、傾向としてであれば、全般的に。致命的なのは、男選びで、西さんとは基本になる考えには合意しているものの、かなりちぐはぐさが目立ち、「いつ離婚するのか、別れるのか」をとやかく言われ続けて、すでに16年以上が経ちました(笑)。テヘヘ。

もしもしつこく強引に、校長センセを犬型の中の何かに喩えるならば(おいおい、まだやるか・・・)、たいへん真面目な仕事を徹底してできる、盲導犬や麻薬犬として優秀な犬種にあるような大型犬であると言っておきます(謎?)