2007年8月にアップした文章です。

 

これについて、どんな言葉のアヤがあろうとも、人はみな、一度以上は考えたことがあるはずです。私などは、「考えすぎ」の典型なので、いつも考えている感じ(爆)。哲学的だと一般的に言われるようなジャンルについての問題を考えるのが好きなのは、けっこう面倒くさいけれども、だからこそ楽しいということがあります。手内職などの単純作業が好きだったり、飲酒をして自分が自分であることを忘れる瞬間が持ちたかったり、スピード狂だったりするのも、きっとその振幅の差を試したいということがあるのかもしれません。あるいは、試すというより、実際にその振幅の差こそが、私が私であるユニークさなのかもしれず・・・。

 

ええ、しつこく、山本周五郎は全部読もうと決意し、いよいよ最後の数編になりました。今日のお題は、『壷』という荒木又右衛門の登場するもの。歴史上の人物を描くのは、山本周五郎にはめったにありません。あれほどの時代劇で、実在した人物を描いたものは、10編に満たないのでした。が、ここでは登場します。

荒木又右衛門は、こんな人。映画や小説には多々登場しています。美化されていますが、武士の本質を垣間見ることができる生涯だったことは明らかです。なので、ここでのタイトルは、「人生の極意」。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 

 

極意:学問や技芸で、核心となる事柄。奥義。

奥義:学問・技芸の最も奥深いところ。おくぎ。

 

時はこの仇討ちのあと、藤堂家に召抱えられて、剣術の師を生業にしていた頃の話です。1634年といえば、将軍は3代家光。翌年には島原の乱が勃発します。まだ、江戸幕府は、外様大名を事あれば(あるいは持ち上げてすら)お取り潰しにし、譜代大名も戦々恐々な頃でした。まだまだ、「武士道」が平和ボケをするまでには、時間を要する武芸が尊ばれた時代です。

 

荒木又右衛門ほどの武士であれば、剣術で食べてゆくことができ、極意を知っていたとみなしてもいいだろう、ということで、山本周五郎は、彼に極意を作品中で語らせています。

葉隠れなどに著されている武士道とは、こんなものです。が、時代はずっと後となります。素人考えでは、武士道というのは、武士が生きていた時代、それほど大差などなかったであろうと考えがちですが、今だって相当変わっているわけで(戦後60年の移り変わりを見てみてください)、やはり時代背景は考えたほうがいいわけです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0 この後ろのほうにある批判を膨らませた書き物があります。http://www.st.rim.or.jp/~success/hagakure_ye.html 山本周五郎は、あえて、そういった時代に生きた荒木又右衛門に彼の言葉を吹き込みたかったのだろうと思うのです。なぜならば、山本周五郎の舞台になる江戸下町の時代は、たいてい、天保以降なのです。たまに享保年間あたりがある。こんなに早いものは珍しい。そこには、山本周五郎の大いなる意図があったはずです。彼が好んで下町やその町民たちを書いたことや、武士を描くにもはみ出た武士や苦労を重ねている武士や心理的な動きを絡めているのは、立場に縛られることを中心にしているのではなく、「与えられた環境と生い立ち」についてどのように生きようとしているか、を浮き彫りにしたかったからなのでしょう。無論、山本周五郎も葉隠れは読んでおり、彼なりの「立場に絡め取られる悲しみ」は知っていたわけです。それを使わない手はないですしね、物書きとして。

(てへへ、最近、図書館に行けて、実際にいろいろな時代小説を読めるので、ちょっとこまかく読めるのでいい気になっているところアリ・・・爆)

現代に生まれて私が本当によかったなぁと思うのは、鎖国時代と違い、多様性に満ち溢れたいろいろな考え方にも接することができること。しかも、安価で容易に。江戸時代であれば、せいぜい長崎は出島経由や、危ない道を渡った抜け荷(密貿易)モノ経由しかなく、私くらい貧乏な血筋に生まれていれば、そこまで行き着くにもきっと果てしない道のりだったことでしょう。身軽でなかった貧乏人は、旅をすることすらなく、自分の町の近辺から出たことすらなかった人のほうがずっと多かったわけですし、かな文字ですらマスターしないでいた人々も多かった。今だから、生命体はうんぬん、と語れるわけですし、本能に抗う術やいろいろな論理も理解できるわけで、昔に生まれたら私はどうなっていたんだろう?と、ドキドキな想像をすることになります。

けれども、どんな立場に生まれようが、どんな知識があろうが、どんな手に職があろうが、共通する人生の極意はあるのだ、ということを、山本周五郎を読み続けると感じるわけです。

 

『各自その道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ』

 

と荒木又右衛門に語らせています。やっぱり心なので、知識はあったほうがよいけれども、心根がどうしようもなければダメだぞ、という警告です。謙虚でいることや、感謝する心、私利私欲を滅する心。よく働く心。大切です。

ラクしてナンボのもん、の象徴のような、「亭主元気で留守がいい」だとか、「三食昼寝付」な主婦で甘んじていられる女性が増えてしまったら、やっぱりダメなのです。「いかにラクして多く稼ぐか?」ばかりを追い求めている労働者でいては、修行もできないし、他人のことを思いやる気持ちが持てないので、やっぱりダメなのです。表面上を言い繕っておなかの中と違うことをサラサラ言えるようではダメだし、パワーを追い求めているような暮らしぶりでは、心のねうちは下がるわけです。

そんなことを考えながら、考えているだけではきっと大半の人ができるだろう、と思い、私はそれを行動に移すようにがんばっているところです。しかし、「もうこれ以上できないよぉ。脳みそから揚げ状態だよぉ」と母に言いながら寝るのが、何日も続くと、やっぱり温泉に行きたくもなるのよ(笑)。今日は、うどちゃんたちを預けたキャットシッターのマヤさんに、「たまにはゆっくり休んで、花の香りを楽しめるくらいゆったりしてね」と言われたところです、メールで。うどちゃんたちをお迎えに行く段取りは、あと4・50日だから進んでいるのだ。さくらが、マヤさんを前足の片方で突っついてせっつく、癖がついたようで、「私は何をやってもみんなが許してくれるのよ」テキ、女王様気取りを報告してもらえたところです。ハイジも女の子なので王女様然としたところがあるのですが、彼女の場合は、要求するわけではなく、こちらのほうが無言であっても「やってあげなくちゃ」と思わせられてしまうような・・・。ぴたっと横に並行に横たわられてしまうと、どうもこちらの手が疲れても、撫で続けてあげなくちゃならないような、断りきれない気分になるんだわ(笑)。が、さくらは要求がすごい(笑)。あ、また脱線した・・・。

私は大筋で、人生の極意を実践できていると思うので、小金持ちに戻っても続けていこうと思います。そして、大金持ちの下くらいになっても続けていけると思います。私がDuPont, Bill Gatesクラスの大金持ちになることはありえないので、そこから上は考えるのもおこがましいのでやめておきます(爆)。