2007年10月にアップした文章です。

私はこの通説に、かなりな反感があるわけです。特に依怙地になることではないにしろ、美化していいところだけが先走りしているような・・・。桜は日本古来のもの、という錯覚まで起こしてしまいそうな、お花見イベントや、桜への絶賛。うーん、今日は桜前線が届く前に、ちょっと考えてみましょう。世の中では、そろそろ花粉症の方々が、鼻がむずむずしていると話していました。私はこの年齢になっても大丈夫だったので、生涯おそらく大丈夫でしょう。桜は花粉を出すんだろうか?それすら知らないよ・・・(汗)。

 

桜情報

http://www.sakuranokai.or.jp/index.html

これの知識・技術というところが基本情報かな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9 

ものすごい量の情報なので、途中でイヤになりました(笑)。

 

まず、私はお花見が嫌いです。うーん、大昔のお花見というのはもっと違った風情だったのかもしれません。が、横溝正史が書いた『半七捕り物帳』にもお花見があり、半七は女房になったお粂とはお花見で知り合うのです。桜の下で飲み食いをしていたことは変わりないようです。ふと調べてチェック。念入りにやっておかないと、エッセイのお題にした意味がない・・・。私の仮説が生きるかどうかの瀬戸際なのだった(爆)。歴史はここに載っています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B 吉宗以降だったのか・・・。やはり、俳句や短歌にも関連しているのは、奈良時代や平安時代の名残で、どんちゃかぴーひゃら騒ぎがあったわけではないのね・・・。

 

が、桜を見ることは好きなので、これをいっしょくたに「お花見」というボキャブラリーだとみなして、口に出してしまうと、宴会版お花見に誘われてしまうことがあり、話す相手も見極めねばならず、ちょっと窮屈で不自由な気がしてしまうのです。しかもあのような形でのお花見というのは、私が桜に対して抱いている風景とは、たいへんにちぐはぐ。いや、むしろ180度違うところに対座しているわけです。

 

日本人は桜が好きだという説には、まったく反論はしません。けれども反感はある。知らず知らずのうちに魅せられているであろうことは、気づいたほうがいいと思うのです。人によっては、「宴会が好き」かもしれないし、「1年のうちわずかな時期にしか見られないから好き」かもしれないし、理由はさまざまだと思います。そこに文化的背景がくっきりしっかり入っているかどうかで、それを検証して初めて、他のさまざまな事象と照らし合わせてこそ、「日本人は桜が好き」と結論づけられると思うのですが、こんな細かいことを言っていたら、相手によってはたいへんに嫌われます(爆)。が、私は、誰かに嫌われることに頓着していないので、あえて、「なーに言ってんだか」と言われるようなことを書き続けているのかもしれず・・・。感情だけで物事を処理していいのだ、としてしまえる、いろいろな事項があったのですが、それが近代・現代人のここ200年以下くらいのテクノロジーの発達により、私ごときの凡人でも、放置していられない事柄が増えました。尊厳死もそうであるし、児童虐待もそうだし、性犯罪についても、連続殺人についても、政治参加を市民がどこまでやるかもそうだし、メディアの普及と受け取る側の態度についてもそうです。挙げればキリがありません。ま、そこにどうして「桜」を入れるのかは、強引な業としか言えないのですが(爆)。けれども、感情だけで処理している、のいい例かと思えたので・・・。

 

校長センセの著書にも、「立ち止まって考える」「さらによりよい方向に伸びるために考える」等、ビジネスの場としての立場からいろいろ書いてらっしゃいますが、実際には、生きることそのものにも繋がっています。だから、桜について考えたっていいのよ(爆)。

 

私は、桜がはらはらと散る真下に位置して360度の風景を、胎内に入ったかのような気持ちで体験するのがたまらなく好きです。散りゆく桜が好きなのです。夜は夜の趣がありますし、太陽光線でも雨でもそれぞれの風情があります。生まれ育ったところに、神代植物公園があり、私が留学するまでは、無料で入れた時期にかかっていたので、毎年、私はそこで桜を体感することができました。しかも、ひとりで。私の桜体感は、ひとりでないとダメなのです。感極まって泣いてもいいように、ひとりでないと本気で胎内に潜りこめない。恋人とふたりっきりで、大勢の仲間とみんなで、というような体験ではないことは、私の中ではっきりしており、生きている、そばにいる人間をなおざりにしてしまいたいほどに、静謐で個人的な儀式なのです。が、なおざりにするのは失礼なので、そもそもひとりでいたい。あのときほど、「人はひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆく」という解けない命題に、浸りきることはないわけです。

 

1年のうち、わずか2週間足らずしか咲かない花は、薄紅で謙虚で花びらの形もかわいい(あ、これも主観で感情なのだな・・・)。風に舞い、雨に打たれ、花吹雪の中に埋もれると、日本人に生まれ育ったことの醍醐味を感じ、タイムスリップしているような感覚に陥ります。切腹して死んでいった人々、飢えのためにじっとうずくまっていた人々、ただひたすら単純作業をメシの種にしていた人々、名誉のために死んでいった人々、先がわからないまま突き進んで死んでいった人々、などなどへの想いを馳せるわけです。そして、また、私もこの花びらのひとひらであることをしっかりと受け止めて、あはれな気持ちで胸を満たし、たとえ瞬きするほどの時間でもいいから、けなげに明日から生きていこう、という再々決心を毎年することができるのです。アメリカにいて、それが叶わなかった頃も、それまでの体験を瞑想して同じことを繰り返してきました。なので、私はお花見が嫌いなのです。

 

だいたいねぇ、さらに下世話に表現してしまえば、新しいもの・若さを大仰にもてはやす人々が、どうして桜が好きなのよ?桜は散りゆくところが侘び寂びなわけよ。さくらんぼが獲れるのはただのおまけで、桜のハイライトは、散りゆくということなわけで・・・。儚いということなわけよ・・・。「ぱっと咲いてぱっと散る」という美を真似できないで、どうしようもなくこの生にしがみついて苦闘している自分に、教えてくれるものがあるから好きであってほしいよ・・・。これがわからなければ、気づかぬうちに失っているものは多いのではないかと思われる。

 

しかも、人は集団で動くと無知で愚かなことをやってしまう傾向にあり、どうも私は積極的に参加できず、桜の散りゆく場面を冒涜できないでいます。いや、これを冒涜と呼んでしまう私は、極論持ちなのかもしれません(汗)。酒を飲むならば、桜とセットにせずとも、他の355日くらいはいくらでもどこでも機会はあるし、実際に言い訳をつけつつ、飲んでいることでしょうから、桜を肴にしないでやっていこうという、私の気持ちはアル中にしてはあっぱれでしょ?←自画自賛(爆)。

 

私の言いたかったことがわかっていただけた方、どうもありがとうございました(ぺこり)。「そんなことまで考えて疲れない?」という問いには、「疲れるけど、動いてしまう脳みそを止めることはできないのよぉ」と答えておきます。でも、やはり、桜の下で肩や髪や手にはらはらと舞い散り、止まる、桜の花びらを受け止めるのは、人生のハイライトスポットです。今年もやりますぜ♪