04/11/2007 にアップした文章です。

 

なぜ、こんな年齢になるまで、加藤清正について表面的にしか知らなかったのか?母に尋ねてみたのだけれども、しょーもないことに、母自身が加藤清正について知らなかった(笑)。「誰?うーん、なんか聞いたことあるね・・・」と困惑状態・・・。いやー、やっぱり時代小説を読むのは、日々ためになります。こんな人が確実に生きていた、ということを知ることや、その情報がどれくらい虚構(フィクション)で、どのくらいが事実なのかを考えるのも頭の運動である。しかも、ちょい影響されているのに気づくと、照れくさいけれども、自分がいかに素直な人間なのかもわかってしまう(笑)。

西さんがいつまで経っても、台湾から戻ってこないのである。私はどうも西さんのことを「全般的な常識についての達人」とみなしていたところがあるのですが、実際は、山本周五郎を知らなかったり、歴史上の人物についても偏っていたりしました。それを知ったときには、「うがぁ、なんだよ・・・」とたいへんに落胆したのですが、スカイプで加藤清正について聞いている時間もなく、今に至っています。やっぱり別居状態ってこういう弊害があるのね・・・。けれども、西さんと私は完全に5年、行ったり来たり状態をもう2年やっており、それでも離婚しないって、それなりに意義のあることなのかもしれません。

さて、加藤清正。いろいろな情報があるのですが、基本形はコレ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3 
熊本城のHPからコレ。http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=448 

お恥ずかしいことに、九州人の配偶者を持ちながらも、私は加藤清正という人について、詳細を知っていませんでした。本当に一般的なこと;戦国武将で、熊本城を作った。秀吉に見出されて幼なじみだった。人々に人気がある。トラ退治をした。のみでした。今回、『火の国の城』という池波正太郎を読んだのですが、それには、実直な清正が忍びを使ってまでも日本の平和を願いながら死んでいった話が描かれています。

どんな文献を見ても、織田信長とのふれあいについて不明なのですが、秀吉の側に居たので、出会ったことはしょっちゅうだったはずなのです。彼について書かれているものは、秀吉が台頭し、朝鮮出兵をした以降、大阪城に秀頼がいて冷戦が続いていた頃のことが多い。加藤清正は、おそらく信長が大好きだったのではないかと思うのですが(なんだか陳腐な表現だなぁ・・・)、会話も残っていなければ、手紙も残っておらず、なんだかがっかりなところです。

加藤清正のハイライトは、一般的に要約して言われるように、有能な建築士だったことと、豊臣と徳川に挟まれたことなのでしょうが、私はどうしても「どうして加藤清正が加藤清正になったのか」のプロセスが知りたくてどうしようもないわけです(笑)。数々の合戦があり、そこに秀吉同様、あるいはそれ以上の武者ぶりを発揮して登りつめたはずなのですが、どうして時代劇やスペシャルドラマになっていないのでしょうね?『功名が辻』で、ちょろっと出てきたようですが、主役になっているドラマがないのも不思議なところです・・・。だから知らなかったと、世間のせいにしてしまう私はひどいのかしら?(笑)

私はどうも最近、つくづく考えてしまうのですが、「徳川の世にならなければ日本はどうなっていたか?」ということ。そのもしもIfを考えるには、織田信長が生きていたら・織田信忠が本能寺直後に死ななければ・豊臣秀吉が朝鮮出兵などしなければの次くらいに、「加藤清正が秀頼を立てて熊本城に立て篭もっていたら」というのがあります(笑)。それが加藤清正の脳裏に刻まれていた証拠が熊本城で、優秀な設計者だった清正は、こんなすごいものを残しています。それは池波正太郎の本やその他にも残されていることで、みんなが想像しているのですが・・・。http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=450 

(余談すぎるのですが、やはり徳川幕府の功績の一番は、いいにしろ悪いにしろ『鎖国』なんでしょうね・・・。最近、赤穂浪士についても詳細を2編読みましたが(『おれの足音』『編笠十兵衛』)鎖国がなければ、あの事件も起きなかったことでしょうし、日本の文化そのものがうんと変わっていたことでしょう・・・)

徳川家康には、「今の恩義を立てるのに昔の恩義を捨てるなどというのは、武士にあるまじ姿」と論理を展開し、秀頼との架け橋になっているような感がありますが、明らかに徳川に歯向かった真田とは違い、老獪だと見る人たちもいるのでしょうね・・・。私個人は、常々「生き延びてこそ」と繰り返し言っている通り、そんなやり方は嫌いではありません。だからこそ、加藤清正がなぜ加藤清正になったのか?を知りたいわけなのです。時代劇ハイライト以外の、それ以前の情報が知りたい。朝鮮遠征当時のトラ退治のことなんてどうでもいいのよ・・・。人というのは、勢いづいたあとのことは「注目する」癖があります。無名な頃のほうがずっと重要な情報なんだけれども、がゆえに、記録として残っていかない・・・。

織田信長を大好きだっただろうと予測するのは、やり方を真似ているところがあるからです。自分の領国となった場所を整備する。民のために、という態度が信長よりももっと庶民的なのですが、やはり領国内をきちんと発展させようという努力も評価されている点がすごいからです。信長の堺や京都などへの態度と同様で、秀吉の華美すぎるところを受け継いではいない。ここはどうしてなのだろう?と思い至るわけです。たったの50歳で、人々の予測では毒殺されたことになっているのですが、がゆえに、大阪冬の陣にも夏の陣にも参加することなく、苦悩を避けられたという見方もあります。なぜ毒殺説が有力なのかは、その前後に山ほどの豊臣方につくかもしれなかった大名やその家臣が死んでいるからです。福島正則・浅野長政・堀尾吉晴など。が、サイトにもあるように、梅毒説や腎虚(腎臓機能が落ちること)やハンセン氏病などの説も、理屈はついていますので、どれを取るかは読み手次第。

そして今回、調べてみておもしろいな、と思ったサイトがこれ。商売になるんだなぁ。私はこれを買うほどの熱意はないのですけれども(笑)。http://www.mononofu.net/shop/t0006.html 

昔に限らず、今も赤ちゃんポストや裁判員制度やその他、いろいろなことで論議が分かれており、人の心って不思議よね・・・。そんな中、「まったく同じ能力とまったく同じ功績(結果)が残せる場合どちらを取るか」という苦悩では、人柄や血縁・縁故・義理になってしまうのは、今も昔も同じことなのかもしれません。加藤清正の場合も、このハザマに悩み、乱世のうちにこの世を去ったということなのでしょう。でも、このお題でドラマどうして作らないのかなぁ←まだこだわってる(爆)。

ところで、現代に生きる私が、名古屋のお友だちのところに行くのが億劫がっていることを、加藤清正のおかげで、さらにたいへんに反省しました。彼は、名古屋の中村で生まれ育ち、生涯のうち何キロくらいを旅したんだろう?しかも、新幹線だってないのにさぁ・・・。さらに、徳川家康に命じられたまま、たくさんの工事を請け負い、お金を捻出し、その莫大な財力はどこから来ていたのだろう?それでも、諸肌脱ぎになり、人夫に混じり、歌を歌いながら自分も工事に参加していたという明るさや体力はどこから来ていたのだろう?と、またまた反省したんだよね・・・。見習ったほうがいいことは、本当に山ほどあり、どうも自分という人間が小さいことを、本を読むにつけて思うわけなのでした。ミステリーばっかり読んでいる場合じゃないと思うゆえんはここなのね。実在した人物について、多少の虚構はあるにしろ、事実を事実として受け止められる謙虚さを、いつも自分に持っていたいと思うわけです。でないと、先生も成功しませんしね♪

しかし、播髄院長兵衛しかり、すごい人々が確実に存在したんだなぁ。ありがたいことです。しかも、彼らについて書いてくれる小説家もいたし、本当に才能が光らない一般人である私にはありがたい。すごいよねぇ。