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『忙しい』は美徳か?

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08/31/2007 にアップした文章です。

 

 

以前も、エッセイの中に盛り込んだことなのですが、フォーカスして話したことはないかと思います。エッセイのお題は思いつくのがたいへんで、これまで、気づくと、復活してから書き始めたものは、570個を超えて、以前HPに載せていたエッセイが、300を超えているので、そろそろ900に到達しようとしています。ということは・・・、1000超え記念は、今年中に来るんだなぁ。続けるヨロコビがもうひとつ増えようとしているということなのか?それとも、そこで安心して止めてしまうのか?

忙しい:(1)することが多くて暇がない。多忙である。(2)落ち着きなくよく動き回って、あわただしい。せわしない。
暇: (名)(1)仕事や義務に拘束されない時間。自由な時間。(2)休み。休暇。(3)夫婦・主従などの関係を絶つこと。いとま。(4)何かをするのに必要な時間。(5)動作や状態の絶え間。時間的な切れ目。
(形動)[文]ナリ仕事や義務に拘束されず、自由にできる時間があるさま。するべきことがないさま。
美徳:美しい徳行。道徳の基準にあった性質や行為。

何度も言うようですが、私は躁鬱病を持病として持っているので、暇があろうがなかろうが、自分で自分を強迫的に忙しくする傾向にあります。我慢の限界がすぐに来てしまうので、ぼーっとしておられず、何かを編み出してでも動作に移そうとします。ですので、私の場合、誰かに「働き者なのね」と言われても、実際はそれは真実ではなく、「自分の意志がそれほど反映していない、生物学的根拠により意志までも影響されている」というのがより真実に近い見解です。

ただし!追い込む調整度のコツは、長年、疾病と向き合ってきたせいで、現実離れしているものが少なくなってきました。しかも、投薬を長年の中で合計2年もやっていないせいもあり、全般的学習、認知改良や行動修正はたまさかではないものがありました。

そのおかげで、バケーションで、ただひたすらビーチに寝っ転がり、徹底的に本を読む、という優雅な行動は取れます。観光地を逡巡する必要もなく、思い出のために写真を撮りまくる必要も感じず、メインの行動が寝ながら本を読むにしておき、傍目ではわからぬように、たくさんの行動を同時にすることになっています。ビーチでの人間ウォッチング・海や太陽や生物たちについて思いついたあとで調べたい物事のメモ取り・隣にいる人たちとの会話・飲み食いなどなどを、織り交ぜて、けっこう忙しいことになっているのですが、落ち着いたように見えることでしょう。

こうした自分の資料があるからこそ、私は会社勤めをしてこなかったし、今もフリーランスで契約ベースやパートタイムで、コミットメントを極力減らして働くことにしています。でなければ、そこでの人間関係の破綻確率が高くなりやすく、小・中・高の学生の頃と同じことを繰り返していくことになると思ったからです。忙しくエネルギッシュに見えることで、真実とはかけ離れて見えることで、多くの誤解を受けて、その受け手が一旦持ってしまった印象はなかなか拭うことができず、人間関係はかなり破綻します。妬みからの悪口を受けたり、他人をせわしない気持ちにさせたり、なかなか他人に足並みを揃えられないことが多かったことを、大人になっても繰り返すことは、とてもやろうとは思えなかったのです。

Workaholicな人々はいますが、私はWorkaholicではなく、特に仕事でなくてもよく、仕事に集中していれば、ソコソコの貯蓄を持っていたかもしれない・・・。けれども、それでは、充実した人生を送ってこれなかったようにも思えるわけです。西さんとも遭ってもすれ違っていたかもしれないし、道端のネコを見ても拾わなかったと思えるし、鮨やさんで出逢う人々と軽口から始めた交流もなかったように思える。資格や能力開発も、その動機が出世やお金のためである勉強はしたかもしれないけれども、楽しいから、という理由ではやらなかったかもしれない。そう思うとゾッとすることもあります。

ナマミの存在であるヒトは、他の動物たちと同様、時間に支配されており、「忙しい」ことは、なぜか前進しているように思われがちです。本当にそうなのか?実際は違うケースのほうが、ずっと多い、というのが、私がここまで見てきた中途結論です。

大きな図柄を見られる能力がある人間にとっては、仕事が忙しいときにも、あれもこれも統合し、何か新しい物事を創造できるかもしれないチャンスが増えていきます。が、Menial(つまらない、取るに足らない)仕事やTaskのほうが、実際は多い。繰り返しだったり、何かがうまくいかないからうまく行くための準備である仕事やTaskのほうがずっと多いわけです。そのせいで忙しい人のほうがずっと多いことを見てきています。だからこそ、いろいろなすばらしいことが実現できるので、すべての仕事は尊いということになるのですが、印象操作のせいなのか、人間というのは派手なことにしか気づけない哀しい動物なのか、それらの仕事は評価しづらいので、摩り替わって「忙しさ」を評価基準にするようなところがあります。

会社勤めをしている人たちを見ていて感心してしまうのは、残業が当たり前だと受け止められる精神。私は、時給ハグレ鳥なので、サービスも多いですが、「残って当たり前」という概念を受け容れるわけにはまいりません(きっぱり)。仕事は仕事。私生活は私生活。遊びは遊び。準備は準備。などと、きっちり境界線があったほうが、人生はそもそも複雑なので、曖昧を残さないほうがいいようにも思えます。グレーエリアをどんどこ増やしてしまうのは、いかがなものなのか?

結局、仕事全般において、これだけ正社員が減り、時給ベースの派遣社員やパートタイマーが増えているということは、核となる仕事というのは、本当に少ないのだということなのかもしれません。が、その核を実現するために、支える人々の提供する支える仕事を必要としていることばかりなのだと。

だったら、忙しいことで自分の人生そのものを忙殺する必要はないような気もする・・・。何かあとでとても大きな、貴重な経験として、歩むのが必要だったと思えるようなことでもなければ・・・。

道徳基準の高さが「勤勉」というのは、わからない気がしないでもないですが、やはりコレもフツフツと裡側から湧いて出てくるもので、長い時間を掛けて行動に反映されていくものでしょうから、それひとつを以って、美徳とも言えない気がします。

実際に、ダラダラと時間だけ長く、大した内容の仕事をこなせない人々というのは、哀しいけれど実在します。行動に無駄が多く、時間ばかりを食う行動様式しか身につけていない人というのは、やっぱりいるのですよね・・・。忙しいがために、家族や恋人や友だちをないがしろにする人というのも、やっぱりいます。仕事が理由であれば、何をしても大丈夫だろう、許されるだろう、という基準を持っている人。仕事がらみのゴルフなのか、悦楽のためのゴルフなのか、誰がどのように言い訳できるものなのやら・・・。飲み会もそうですな・・・。だったら、「遊びの中で学ばせていただける、新しい人たちと逢えるのはいいことだよ」くらいな気持ちで臨んでいただきたいものです。

とはいえ、私も地獄のスケジュールを組み、ここのところ、拘束時間が増えています。が、エッセイを書けないことはないので、冒頭にあったように、1000個は確実に目指せるメドはついていますし、ネコたちと寝っ転がって対話する時間もあります。ただし、エクストラのことができそうになく、時間のかかるパチンコや、よその掲示板に行ってあれこれ討論することや、誰かのパーティーの幹事をやるなどができそうにないわけです。やはり、私にとっては「何の足しにもならないこと」をさらりとこなす時間は確保したいと思うので、地獄のスケジュールは、なるべく組みたくないですが、ドラッグストアショーに出展したいので、がんばろうと思います(笑)。