ブログ

『手紙』を読んで

カテゴリー:ブログ

03/26/2007 にアップした文章です。

 

東野圭吾作品をすべて網羅していなかったことがわかるのは、図書館に行ったときではないのである・・・。とりあえず、すでにリストが作ってあり、購入せずともいいだろう、と思いつつ、図書館に行ったときにリストの中の何かがないかどうか?を確かめています。あとは、
・ 依頼人の娘
・ 冷たい灼熱
・ おれは非情勤
・ 赤い指
・ 使命と魂のリミット
だけです。ふぅ。アメリカに居たときからで、図書館もなかったし、成田で買うにはかなり制限があり、それでいて、海外に取り寄せても学校に行っているときには「誘惑」となり勉強が捗らないので、やっとここまでたどり着いた感じです。58冊中、あと5冊というのはけっこういい成績。エッセイのほうはすべて読んでいます。

さて、この作品以外にも、相当に映像化されているとは思っていたのですが、こんなにもされていたとは・・・。この『手紙』もその中のひとつ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E7%B4%99_%282006%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%29
ものすごくヤバイのは、この俳優の中で知っている人は、主役の山田くんという子だけ。『世界の中心で愛を叫ぶ』というドラマを、なぜかアメリカでやっていたので見たことがある、という程度・・・。あ、当然、風間壮夫と杉浦直樹は知っているのだけれども・・・(汗)。

犯罪者の弟となった高校生が、どのようにして生きていくか?という大きなお題なのですが、その中にしっかりと、「世間の冷たさ」が描かれており、私は一気に2時間で読みました。当然映画は見ていないのですが、これまで一度も、原作を超えた映画は見たことがないので、おそらくこれもそうなのだろうと、すでに仮定しておきます←反対意見のある方はぜひ優れものの例外を教えてください。

どうなんだろうか?ミステリーではないにしろ、そんなにすごい社会派作品でもなく、どうやって受け止めたらいいのか、と、ちと迷いながら読み進めていきました。しかも、私は今だからこそ、この主人公の選択のいろいろに反対ではあるのだけれども、私は選ばない、と言えるのだけれども、実際にどうしていたかは、仮説でしかないのが虚しい・・・。

私個人は、嘘をつく、ということを、8歳くらいからしなくなっているので、嘘をつくくらいなら沈黙するので、やはりいろいろなところで、不協和音を感じつつ、読み進めていきました。ただ、最後の「存在そのものが負担」というのは、私が他人とおつきあいをするときには、昔から常に考えていたことで、ならば「消え去る」というのがモットーだったので渡米しちゃったんだよ♪というのが、根底にあるような気がします。以来、逢いたくても逢えない人たちが増えたのは、ご推察通りです。

この本の中に何度か登場する、「家族を守るためには犯罪者とその家族と関わりになりたくない」というのは、正論だとは思いますが、私はやはりどうも心から納得していません。むしろ、捕まっていない人でその態度や行動続行中の人のほうが、私にとっては危険信号としては赤点滅なのです。つまり、捕まるくらいに、1.罪悪感があって自首あるいは捕まるような行動に出たかもしれない 2.それほどの綿密な計画性などなかったかもしれない 3.過ちだったかもしれない などなど、考えられる選択肢はいくつかあるわけです。重要なのは、4.何度も何度も繰り返したので足がついた、というもので、これだと、やはり赤点滅の信号にはなるような気がします。私にとっては、「犯罪になるかならないか」のグレーゾーンを平然と行ったり来たりしている輩のほうが、ずっと怖い。確信犯である場合もあれば、本人にはまったく罪の意識はなく、常識人だと信じて疑わず暮らしている人々が、けっこうたくさんいるではないですか・・・。

あとは、犯罪の種類によって腰が引けるものなのかどうか?ということ。私は、分類大好き人間ではありますが、そもそも先天的に何かに大きく引きずられるものはあるかもしれない、という可能性と、後天的に身につけたものであれば、非常な苦労は要求されるが学ばなかった白紙状態にすることも不可能ではない、と考えています。なので、強盗殺人ならば、そこでまた分別しなければならず、快楽のために殺したのか、お金が欲しくてやったのか、レイプしたかったからやったのか、などなど、動機も大いに重要になります。私にとっては、計画性のない事故にみなせる正当防衛や、過剰な力が入ってしまって殺人となったり、心神喪失での常軌を逸した状態での殺人よりは、つるんで計画して対象を絞った詐欺のほうが怖いわけです。まぁ、映画おOcean’s 11,12,13などに見られるような、あるいは、高村薫氏の小説に見られるような、スパイモノに見られるような、遠大な計画性はまたエンターテイメントとして別物だし、私などは対象外なので、恐れることもない、と高を括っているところがあるのでしょうが・・・。なので、個別に見ていかなければ、特にどの犯罪だからこう、と決め付けることはできない、という態度は維持してきましたし、今後もそうなのだろうと思います。

ええ、私はアメリカでは、受刑した人といっしょに飲み食いもしましたし、遊びにも出かけたことがあります。学校にも居たのではないかと思えます。そんなことを受験の申請書に書く欄はなかったように思う。学生ローンの書類にはあったかもしれないが・・・。アパートだって、借主が元犯罪者でなければ、同居している人たちで元犯罪者はいたかもしれないです。そりゃ、日本でも同じです。でも、元受刑者だって、今、私に危険を及ぼすことがない限りは、特に構えて準備しようなどとは思わないですね・・・。

しかも、その元受刑者や現受刑者の、家族や友人を差別するなんてことは、ちょっと考えも及ばない・・・。意見は言いますよ、本人たちに問われたら。実際に、「私の息子の育て方が悪かったんだと思う」などと言われたことはあります。ドラッグの運び人のようなことまで、などと言っていましたが、確かに人様に悪の粉を運ぶ役はいけませんや。けれども、自衛しきれない人々がいることも問題だと思う私はやっぱり厳しいのかしら・・・。本人が悪いと思って改めればいいことだし、私はその息子さんに影響されない自信がとりあえず今のところはあるし、育て方が悪かったと思うのならば息子さんに直接話してみれば?と意見を言うわけです。茨の道だけど、セカンドチャンスはあるでしょう、と。あなたも親でいる限りは、まだまだできることがあるでしょう、と。

私は、正々堂々としている熱血漢のようなところがあり、それでも他人に対してのスタンダードがないユルユル人間なので、どうも、この差別の動機である「家族を守るために」という文言が飲み込めなかった・・・。しかも、私は「苦労は買ってでもしろ」というのを自分に課しているし、他人様にもオススメしたいところなのである。社会は冷たいし、他人は自分の身内を大切に想う、というのが、この本に書いてあるストーリーのバックグラウンドなのですが、私みたいな人間もいることは、ぜひぜひ忘れないでいただきたいのですが・・・。当然、ここでの反論は、「あなたは子どもを産んで育てたことがないから」というのがあるのでしょう。このストーリーでは、高校生だった弟が、妻帯して子どもができても、その保育園で差別が起きるという設定が後半の後半に出てきます。それほど世間は冷たいのよ・・・。でもねぇ、いくら人の親になったからって、自分の子どもだけをかわいがり、人としての道を外すようなことがあったら、私は人の親という立場は返上したほうがいいと思えるんだけどなぁ・・・。3・4歳の子どもが、家族だというだけで差別に遭わないといけないのか?と、ひたすら疑問を感じます。

まぁ、東野圭吾氏は、それらの理不尽を皮肉るためにも徹底した差別を描いたのでしょうが、こんなことではやはり世界平和は永遠に来ないし、人々はユートピアの入り口にもたどり着けないどころか、その地図すら描けないまま、地球は終わるのかもしれないなぁ、などと、暗い気持ちになってしまったことは確かです。チャンスがあれば、原作のほう、ぜひぜひお読みくださいね。