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あなたの日本語は大丈夫?

05/03/2007 にアップした文章です。

西さんからめずらしくサイト貼り付けが来たので、それを採用することにしました。校長センセも日ごろから指摘してらっしゃいますが、私も日本語力の低下には、18年半ぶりに、またもや驚いているところです。「おいおい、日本人に対しての日本語のTVの字幕は何とかならないのか」から始まり、TVに出る側の人々が使う日本語の不正確さにはかなりの頻度で辟易し、短縮語にも眼をパチクリさせて、かなりコミュニケーションが不自由になっていることを感じます。

西さんは鹿児島人ですから、日本語であっても、私とは日本語でコミュニケーションを取るのに、最初のうちは困難がありました。方言を揶揄するものではなく、ツールとしての手段である言語について取り上げています。その「違い」をすぐに双方が認識できるかどうか?というのが、ポイントだということです。そこで、鹿児島で話されている日本語の歴史を語ってもらい、方言の段階も知りました。島津藩の頃の隠密活動への防衛の手段としては、言語を巧みに使うのは知恵だったのでしょう。琉球や台湾が近いこともあり、そこを架け橋にして密貿易もやっていた歴史を考えると、納得が行きますし、ここ数ヶ月読んでいるたくさんの時代小説を読んでいても、鹿児島の事情というのはいくつも取り上げられます。

さて、ニュースの元文はコレ>
http://www.sankei.co.jp:80/kyouiku/gakko/070430/gkk070430000.htm 

以前に幾度か書いた通り、私の日本語は母のそれよりも毒されていません。それは、現代日本人が使う日本語からかなりの時間遠ざかっていたせいがあります。18年半のうち、日本に滞在したのは里帰りや父の看病や葬式を出した期間を合計しても、2年にも満たないことでしょう。触れる日本語は、話し言葉よりも書き言葉のほうが10倍以上も多かったこともあります。つきあう日本人の数が圧倒的に少なく、限られた人々だったこともあるし、もともとネコのように1日に数時間はひとりの時間がないと気がすまない・安らげないという私には、特に日本人とのおつきあいを強く求めてきた気配もありません。アメリカにいる日本人の中から、自分がつきあう人間を日本人優先にして選んでいたら、それはそれでとても哀しいことです。己の望郷の念から「便利だから、利用できるから選んだ」ということになり、なぜ見も知らぬ他人だった人々と友人になるのか?という大きな命題を軽んじていることになってしまいます。

そんなわけで、私は、ネット以前(Pre-Internet Era)は小説や読み物を中心に日本語に接してきて、西さんやその近辺の日本人と日本語を話してきましたし、ネット後(Post-Internet Era)は専ら、ネット上でのニュースを中心に、情報となった書き言葉を中心に触れてきました。チャットや掲示板なども利用したのですが、チャットは話し言葉だとはいえ、掲示板はあくまで書き言葉です。その接触度はやはり書き言葉のほうが圧倒的だったわけです。

母とは、国際電話が安くなってからは、できる限り電話で会話をしましたが、彼女自体が若者流行語を取り入れる傾向がなく、昔ながらの言葉をそれほど大きな変化がなく使ってきていますから、大きな影響があったとはみなさなくてよいことでしょう。

西さんの日本語がなぜ私にそれほどの影響力がなかったのか?あるいは、18年半前の日本語を維持するのに役立ったのか?彼が標準語を話しているつもりの日本語のベースは鹿児島訛りで、イントネーションも意味も鹿児島ベースに寄っているのです。それに気づいているがゆえに、私が取り入れたのは、感情を端的に表す「なんね」「あいた」などの短い言葉だけでした。

こうしてエッセイを何本も長い時間に渡って書いているときに、辞書の意味をいつも貼り付けるのは、私の言っている意味が「なべて通用するかどうか」に注意を払っているからです。でなければ、理解に到達することもなく、私からの能動的な働きかけや情熱や時間や誠意を見せることができないと考えるからなのです。辞書を引く一手間というのは、簡単なようで簡単ではなく、習慣にするには根気の必要なことです。なので、私が確認をして辞書を引くのだから、そのまま貼り付けるというのは、礼儀のひとつでもあると考えているわけです。

さて、本文。『日本語の基本語彙がない』というのは、致命的。語彙として取り入れる生活を送ることができていないから、その語彙を聞き流し、注意を傾けることなく、そのまま持ちえている語彙だけで暮らしていると解釈できます>発達心理学的解釈です。どんな物事でも、耳や目や肌などの感覚器官から入り、その質と頻度(回数)、いわゆる質と量を検討してみるところから始まります。生物としての生命体の機能が発達している場合、学習方法には「強調」「必要性」などを用いることが多く、その意味から考えると、バラエティに富んだ語彙を必要としない程度の生活を送っているがゆえに、基本すら見逃してしまうということになります。映像や他人の表現をそのまま借りて、自分の持ち物として語彙に取り入れずとも、ネットを使ってわかるように、コピー&ペーストができたり、ハイパーリンクが使うことができる。このシステムは、日本語を発するときに習慣化されているのかもしれません。

英語などの外国語・第二言語を学ぶにしても、基本となる母国語を凌ぐ・超えることはありえず、このニュースの中では、Oftenを例えにしていますが、かなり哀しい状況です。さらに、このごろ流行りの中国語を身につけたい人々が増えているにしろ、漢字の意味がわからない状態では、学習の効率や成果にも疑問が生じてきます。業界を業会って書けてしまうのはすごいし、それならば世界や芸能界をどう書くのだろうか?と、漢字を書けない(今はPCや携帯なので、選ぶとあえて言うべきなのか?)人々の脳のファイルシステムを想像しているところ・・・。

英語ができることはかっこいいことだとか、仕事に有意義だから、というのは副次的理由です。動機として弱い。私が、英語ができてよかったなとつくづく噛み締めて感じるのは、多様な文化や考え方の違いを、言語のニュアンスで感じることができる、という類のことになります。そこから発生したさまざまな習慣や儀礼の違いなども含まれ、なぜ、スキンシップを多くする文化圏とそうでない文化圏があるのか?を、論理だけではなく、日々の生きた人々が使っている場面を肌で感じることができるうえに、その原語で理解できるわけです。映画がその日常茶飯事な例です。ではなぜそれらを理解することが大切で重要だと、私個人が考えているか?というのは、ヒトという生命体に生まれてきた限りにおいて、無限大の可能性がある脳をなるべく多く使い切りたいという意志が強くあるからでしょう>ほら、Implementっていう単語で事件を感じたように(笑)。

そして、現在は法言語学に興味を持っているのですが、日本語を愛しているからこそ、英語ができるヨロコビがあるわけです。英語の先生もやっていますが、まだ、「その日本語はわからない」という段階までには達していません。いつか経験することになるのかもしれないです・・・。日々、書類を英文翻訳もしているのですが、日本語で曖昧にしている「よろしくお願いします」などについても、英語であればどうやればいいのか?と、場面ごとに則した翻訳ができる翻訳プロはどれくらいいるのか?と、この仕事も奥が深いのだなぁ、と、感心しているところです。

まずは日本語。だから私もブログを書き続けることにこだわってきました。これからもしばらくは続けていきます。相変わらずの長文、読んでいただけて、本当にありがとうございます♪みなさまの日本語力が大丈夫なことを祈ります。ええ、私は大丈夫でありたいがために、読書は続けています。がんばろーう!

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