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お金に求めるしあわせ(2)

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お金が持つパワーというのがあります。モノやコトにいつでも換えられるということ、これがいちばんです。このパワーは恐るべきものがあります。貧乏を経験したことがなかったり、何気なく使っているとわからないですが、たとえば、外国に行って貨幣が違うために日本円が紙屑同然に思えてきて、身動きが取れないとよくわかります。いくら等価であるとみなされた数字がついていても、使用者が相互の理解と認識を示していなければ交換することができないわけです。

「モノを所有する、コトを自由にやる」ということが、なぜしあわせに繋がるのかをよく考えながら慎重でい続けられる人は昨今少なくなってきているかもしれません。私の口癖のひとつに、「お金は邪魔にならないからあったほうがいい」というのがありますが、これはあまりに簡略化しすぎた言い方です。「お金の使い方をそれなりに知っている人・さらに知り続けていこうという態度がある人にとって、お金は邪魔にならない。なぜならお金で躓くことも溺れることも想定して使われることなく使うことができる期待値が大きいからだ」ときちんと言わねばならぬでしょう。さらに、「お金が銀行や手元にあったからと言って、それに邪魔されるような生き方をしなければいいのだから、チャンスや便宜をもたらしてくれるお金は邪魔にならないからあったほうがいい」としまいまで言わなければ誤解を招く言葉かもしれません。

いつからか保険金殺人というのがごく頻繁に報道されるようになりました。人間の欲のなかで権威欲というのを測るのに、最も端的なものは数字で測ることのできる金銭欲なのかもしれません。

「貧乏だったことを誇りに思ってるだろ?」と西さんに言われたことがあります。誇りではないですが、しあわせなことだったと思います。何かを始めるのにゼロに近いまっさらなところから始めることができ、余計なものに惑わされずに自分を軸にして進んで来ることができたこと。これはモノに恵まれ、遊びに飽いている子どもたちよりもずっと恵まれていたことだと思います。他の子どもが持っていた遊び道具を借りる交渉力やお願いする態度、似たような遊び道具を創意工夫して作ろうとするチャンス、我が家は貧乏である・世間は決してフェアではないという認識、モノでは得られないヨロコビ、ひもじい想いをしたときのフィジカルな空腹感とそれに伴う感情。それらが無駄になっているとは到底思えないし、ないものから作り上げていく未来は明るいものであったような気がします。幸運なことに栄養失調で死ぬほどの極貧ではなかったから言えるのでしょう。

もしも誇りに思うことがあるとしたならば、その貧乏である境遇に留まらず、貧乏が私にかけてきた制限に抗い、あくまで自分が欲した方向に来れたことでしょうか。それをたやすくしたのが出発点である貧乏だったことにあるかもしれません。バネになったことは確かです。なので、誇りではなく、感謝とするのがもっとも適切であるかと思われます。

もちろん高度成長があり、社会の様相が私を助けてくれたこともあります。女子高生がウェイトレスをする、アマチュアモデルをする、オートバイに乗る(まだ当時は女の子のオートバイ人口は少なかったです)、留学を志してとんでもない金額を貯蓄するのに恵まれた環境だったこともあります。これが戦時中ならば私は野垂れ死んでいたことでしょう。「お金さえ持てばしあわせだ」と錯覚するような現場を何度も見たし、私自身、「金持ちになって世間を見返してやる」などと自分のためになどならないことを考えたことも何度かありました。それが一時の気の迷いとして簡単に心のなかで払拭されるのは、私の場合、勉強を続けることに執着したこと、それだけに拠ると思います。ふぅ、勉強するのはお金がかかります…。

私には、勉強を続けていくことができる生活をし生き延びていくためのお金は「金銭欲」の範疇に入るどうしても欲しいお金ですが、それ以上のお金は「宵越しの銭」になり、ぱーっと使ってしまってもかまわないお金となります。西さんと外食もしょっちゅうしていました(というか、我が家はアルコールに払う分のお金が莫大なんだよな…)。『すてきな奥さん』にはなれないだろうこともよ~くわかっています。けれども、慢性的にめりはりなく誰かに国際電話をかけるとか、ドレスや宝石にお金をつぎ込むとか、そういう経済観念は持っていません。事実、私には今、腕時計がないのだ(爆)。日本ではレンタルした携帯電話についていたし、駅であろうがどこであろうがたくさん時計があったので困らなかった…。車についてるし、時計台もあるし、隣の人もはめてるのでいらないかなぁと思っているところです。時計でステータスを推し量られても困るので、時計や車選びはたいへん面倒です。そんなことでしあわせがついてくるとは毛頭思っていないので、西さんもいつもカシオのデジタル時計です>たぶん1980円だ♪

モノを持つことがしあわせに繋がるとなかなか思えなくなったのはいつからだったんだろう?他人がつけた「価値」という不思議な魔物に惑わされなくなってから久しいです。たまに俗世に戻りたくなることもあります。あるいは、戻らないと東京の街が歩けなかったりして、今回も何十回も日本人に見られないで困りました>みすぼらしい洋服来てるからだろうな…。髪を染めている人は多いのにねぇ。で、酔っ払うとなぜだか私の中古品であろうとも、誰かにすべてあげたくなってしまうのはなぜなんでしょう?>やられた人、ごめん…(爆)。

キャッシュだけが頼りだった時代ではなくなりました。現金がすべてだった頃には、ひったくりやすりの危険は多少なりともありましたが、自己破産するほどの浪費は個人レベルではなかなかなかったものです。事業主、特に中小企業主や、それこそ家のローンを払うという以外には、冷蔵庫や車などがぼちぼちと割賦で支払うことができるようになり、昔なつかしい「信用があるからツケが利く」という下地があり、買い物も地域でということが可能な時代でした。その代わり、価格は半固定化されており、安価を求める選択もなかったわけです。家にしても職住隣接で、自転車かバスか電車でも数駅で通うことができ、家族団欒の時間も今よりずっと多かった、そのように子どもたちの様子からわかった、という記憶が甦ります。地方近郊都市は多少変化しているでしょうが、都市化に取り残され気味の町ではまだこのような構造が見られるかと思います。

いつからクレジット、という観念が日本に上陸したかというと、昭和35年(1960年)丸井が「赤いカードのクレジット」というコピーで「割賦」という今では古臭くなった言葉を押しのけるように登場しました。もう40年前の話です。しかし、丸井が近隣にない人々にとってはあまり関係のないことでした。宮部みゆきの『火車』のなかでも、登場人物の弁護士に発生から1992年(本を刊行した年)までの歴史と構造とその実体を語らせるところがあります。

私もアメリカに来て数年ほど経ってから、銀行がつけてくれたVisaカードを使うようになり、経済記録を辿って勧誘してくるいくつかの会社を西さんが断り、彼が選んだカード会社にいくつか加入しています。驚くことにカードはひとり何枚でも持て、そのカードの総和の負債額は個人が管理することで貸し付けている各カード会社にはまったく関係ない、という不思議な実体も現れてきます。貸し付けるだけ貸してつけておいて、あとから取りたてる。目の前にある欲しいものをカードで買い付け、支払はあとからする、という便利さの落とし穴を知っていて実感している人は一体どのくらいいるのでしょうか?気づいたら返済できずに翌月に廻し、またもや翌月に廻し、いつのまにか利子だけを支払っている状態になり、いつしかその利子が元金よりも大きくなっているという人がこの世にはたくさんいるはずです。「自己破産」する人のほとんどが、きっと始めは「ついうっかり」だったのではないか?と想像します。日本では『夜逃げや本舗』という映画もあると聞きました。自己破産する前に夜逃げして、どこかに隠れている人たちがどのくらいいるのでしょうか?

さらに恐ろしいのは、キャッシングができることで、暗証番号さえ加入の際(あるいは後からでも)取ってあれば、銀行の発行するATMカードと同様に現金が引き出せてしまいます。失業者が増えて、いちいち失業した旨を金融会社やカード会社に申請しなくてもいい仕組みである現在では、生活費を引き出すためにキャッシングを利用する人も増えています。

質屋さんは違いました。担保になる物品のその価値を査定し、その何割かを貸しつけ、翌月までに利しを入れるかきれいに払わなければ質流れする仕組みでした。質屋ののれんをくぐって出て来るたびに「こんなことを続けていてはいけない」と、自分なりに抜本的な計画の練り直しができたものです。そこに実体があったからとてもわかりやすかった、というのでしょうか?けれどもカードは違います。明細が毎月送られてはきますが、その紙面にある数字に実感や実体があるとは到底繋げられないわけです。

借金を重ねた人たちだけが悪いわけではなく、行政も悪いし、企業も悪いと、私は思います。便利に使えるものに対してそこについてくる落とし穴をどこかできっちり教えてくれる場所があればいいと思います。

お金で買えるしあわせは本当にあるのでしょうか?私などは自分の教育に投資してそれを損だと思っていないところが穴なのかもしれません。明日は我が身なので、まだまだ考えてみたいと思っています。あああ、それに消耗品を山のように買う癖もあったんだ…。うがぁ、やっぱり金銭欲は深い…。物欲は深いです…。(-_-;) あ…、そういえば西さんも今、台湾は高雄で北京語を習うのに莫大なお金を投資しているところです(爆)。