ブログ

くさいものにはふた

カテゴリー:ブログ

現実をずっと見せないで育てておいて(あるいは現実のいい部分ばかり見せておいて)、大人になってから突然学習しなければならないネガティブな状況での処し方、というのはかなりFlexibility(柔軟性)に無理が出るんじゃないのかな?と想像しています。

実際、「そういう傾向で育てられたのかも?」と私が疑ってしまう行動をする人には掃いて棄てるほど遭遇しました。距離感が縮まらないうちはべつだん真剣に怒りません。少しずつ資料を集めてどうしてそのように「現実を直視しないでやっていくのか」を探ってみます。そして小出しに耳に痛いことも言ってみます。かなり怒らせてしまいます。言い方がきついのか、あるいは言われたことがないから衝撃的すぎるのか?また別に理由があるのか?

いちばん途方に暮れているのは本人であるし、あるいはまったく手がかりさえなく、自分が最後まで正しいと思いながらやっていく危険も孕んでいるわけです。聞く耳を持たない、現実を直視しない、という態度はおつきあいしていき、同意しない部分が増えると関係もダメになっていきます。私は同意されなくても私の言う意味がわかってもらればいいし、その瞬間にわかってもらえなくてもいいので、とりあえず言っておく、という感じです。同意しなければならない、ということも私には不思議なので、「多数決で解決しようとするのはなぜ?」「同じじゃないといけないのはなぜ?」とエッセイで手を換え品を替えいろいろ書いてきました

根本的なものを考えると、「くさいものにふたをする」という態度がいけないのかもなぁ、と最近思っています。いわゆる「現実逃避」です。

私もこれはかなり得意です。やらねばならぬ掃除や事務処理やパッキングや電話やプランなど、どうしても先延ばしにしてしまい、悶絶しながら闘っています。あとから追っかけられるんだからすぐやらないと、とわかっているのにどうしてもラクをしたいという怠け心がささやくわけです。その動機はやはりPleasure(快楽)を求める欲に支配されようとしているので、自分で叱咤していかないとなりません。そんなにチマチマしたお仕事するよりもずっと楽しいことは他にあるわ♪って感じで、ついつい先延ばしにしちゃいますね。ラクなことで何とか時間をやり過ごすということはできることなら疲れなくていいのですが、身体も心もアタマも使わないと自分のためにならないことは、きっと自分がよ~くわかっているのに、どうしてこんな日常的なことでさえも避けたがるんでしょね?

やっつけてしまうとそれはかなりの充実感をもたらします(今も帰国前の事務処理だとか支払をやっていたんだけどさぁ。紙の山がどんどん減っていくのを見るとうれしい♪)。何でやっちゃえば気持ちよかったのに、すっきりしたのに、避けていたんだろう?と思えてしまうくらいですね。エクササイズなんかが特にそうです。勉強も実は習慣になるまでそうだったりします。だるくて疲れているときにはお風呂やトイレでさえそうだったりします。←これはナマケモノすぎるのか?(-_-;) そだ、たまにはごはん食べるのも面倒ですね…。食べ始めるとそれなりに食べられたりするのですが、キッチンまで行って冷蔵庫に何もないとか、魅惑的に語り掛ける食べ物がないとどうでもよくなっちゃいますね。でも、やっぱりしっかり食べてしっかり身体を動かさないと脳みそも動いてくれないし、心もそれに影響されちゃいます。そうして、私はかなり日常的であり、生命体としてこなさないとやっていけないじゃん、というところまで端折ってしまう怠け心があります。でもまだまだがんばるのだ♪

人間関係で他人の言うことを聞かないとだとか、現実を見ないというのも、やはりあとから追っかけられると私は考えます。この場合の動機はラクになりたいというPleasure Principle(快楽原理)の、たぶん、「恐怖や悲しみや痛みから逃れていたい」という要素が強く出ているんでしょうね…。いろいろな段階がありますが、きっと「ネガティブなんだろうなぁ」と予測するとそっち方向は見ない、歩いていかない、という判断をする場合はかなりの人に多いんじゃないかと思われます。

何歳の段階でどのくらいのネガティブさを披露してもいいか?という論議はさまざまですが、私は基本的にはひた隠しにして「くさいものにはふた」をする必要があるとは思っていません。アメリカを始め、たくさんの国やその人々が、「刺激が強すぎる情報を多く与えると子どもに悪影響がある」という意見が多いのですが、私個人としてそれはただの言い訳なような気がします。

その内容について感じ考えるその子どもの力を踏まえていて、そばにいる大人や同年齢以上の子どもたちがいっしょに、ネガティブなことを昇華させていける準備さえあれば悪影響に必ずしもならないと考えます。そういった実験の結果がいくつかありますが、全部英語なんでここにリンクしてもあまり意味がないのか?メールを下されば、帰国し次第添付しますので読んでみたい方はご連絡ください。

たとえば両親の離婚はおそらくネガティブだと受け止める人が多いことでしょう。でもそれは一概にネガティブだと言いきれることではないです。夫婦が憎み始めているほどのコミュニケーションをしているのを見せるのは、そういう「刺激が強すぎる情報を多く与えると子どもに悪影響がある」というセオリーにぴったりじゃぁありませんか!だったら離婚したほうがいいんでないかい?でも居ますよね、「パパとママ、どっちが好き?」と子どもに尋ね続けたり、どちらかのサイドを取らねばならぬシチュエーションに子どもを追い込む状況を作ってしまう大人たち。世の中、全部二元論じゃないっしょ。一概に言えることではないです。その複雑さを理解できるようになるためにも、ネガティブだと思えることもあえて披露するのは必要だと私は考えます。

その場で理解できることがたとえ15%で、無関心が65%で、混乱が30%であったとしても、「くさいものにふた」をするよりはあとからいくらでも Repair(修正)をしていける、とりあえず紹介段階、導入段階は終わったぞ、ということでいいんじゃないかなと思います。問題はどのように、そのネガティブな物事を紹介・導入するか、ということでしょう。知らないうちに親や大人の目が届かないところで突発的に紹介されてしまったほうがよっぽど怖いんじゃないか?と私は思うのです。だって、それまで隠しているわけだから、段階も何もなく、まっさらなところからいきなり「有」になるわけですから。

この世はいい人ばかりであるだとか、不幸なんかあなたには訪れない、という前提はとても危険であると思います。実際、そういう発言をよく聞きますね。「だってぇ、私が今まで出遭った人はそうじゃなかった」「前の彼氏はいつもごちそうしてくれた」「健康問題は人間で歳を取れば自然と出るけれども、詐欺や事故や天災には私たちが遭うわけがない」と。ま、そういう人はそういう世界で狭くまとまっていくのもいいのかもしれません。でも、人生はほんとうにわかりません。何が次に起こるのか。(・o・)だから楽しいと私は思えるし、だからこそ混沌としたなかで私なりの選択をしていくことがおもしろいと思えるわけです。

たくさんの子どもたちの前で(姪っ子も含む)、ケンカや言い合いをしたり、口汚ないとされるような言葉を使ったり、アル中な飲み方をしたり、家事をしないで勉強に没頭したり、子どもには悪影響とされることをしている私です。私はそれが自然体である、と信じているし、「くさいものにふた」をするつもりはありません。

子どもを持っているお母さんであるお友達で、「子どもの前で泣けない、怒れない」という人がいました。「大人だって疲れるし、哀しくなるし、怒るんだってところ見せていいんじゃない?」と言ってみたら、そのお友達は受け入れてくれました。その疲れや悲しみや怒りが子どもに向かっていないこと、彼らに八つ当たりをしていないこと、もしもその原因が彼らである場合にはあとでセットとして説明をしっかりすること、がクリアになっていればネガティブだと言われることもそうそう悪いことじゃないと思います。むしろ、完璧な親像・完璧な人間像を見せ付けられた子どもたちのほうがずっと不憫でしょう。自分がその完璧にスタンダードを求め、こうでなければならないという強迫観念にさいなまれることになっても、親として、まわりにいる大人として、うれしいでしょうか?

私は泣き笑いをする幅の大きな人が好きです。ネガティブもポジティブもすべて引き受けて毎日をやっていく、っていうのが楽しいと思います。子どもに「もののけ姫」を見せるのは早いだとか、ダメだとかいう人は日本ではあまり居なかったのかしら?>すごい売り上げだったんですよね?あれも暴力や闘争や悲しみや解決できないことなどのテーマが山積みだったでしょ?あれはよくても、なぜかリアリティが伴ったネガティブさはいけない、ってことなのかな?←わからない…。どうしてだろう?

もちろんモノには限度があるとは思います。子どもや大人でもその個人のReadiness(準備度)は違います。でも一般論としての、「くさいものにはふた」をするのは反対します。「あなたはまだわからなくていいのよ」がいつまで続くのか、考えてみてください♪