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ひとりっこはわがままなの?

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私には弟がいます。

我が家のネコは3人です。

留学生が同じ時期に2人いました。

クラスメイトは小学校から高校まで40人強でした。

祖父は2人いましたが、1人しか生きて知っている人はいません。

好きになった人には別に好きな人がいました。

私にも好きな人はたくさんいます。

いつの頃だったのか、100%の愛情をひとりひとりに向けることが可能であり、それをごく自然にやっている人はいるのであるということをとても新鮮な気持ちで発見したことがあります。それはやはり弟が生まれてから、彼のみが一身に大人の愛情を受けていたと勘違いした時期を超えてからだったと思われます。

ひとりっこに生まれた人はたいへん気の毒であると思います。知らない人にまで、「あの人は一人っ子に生まれ育ったから本当にわがままだ」と、さも正当なことのように言われてしまうのはちょっと見ていて皮膚に棘が刺さるような気持ちになります。

その原因が

1.他人とのInteraction(関わり)が少なかったからだとか>機会という数について。

2.同年代に近い子どもとのInteractionが少なかったからだとか>またもや数について。プラス、子どもと大人の世界の質の違いについて。

3.大人が子どものわがままを通させてきたからだとか>大人が子どもをコントロールすることについて。

上記のようなことを大上段に構えて、さもありなんのように「ひとりっこの傾向=わがまま」と言われてしまうのは、たとえふたりっこ(テレビのタイトルじゃないです。私が姉で、弟がいた環境に育ったこと)であってもたいへんわがままだと思われる傾向にある私は、まるでわがままになった理由がないみたいですな…。(・o・) それじゃぁ、ただSnap Out(キレた)のがずっと続いている狂人みたいです。(・・;)

確かに私の生まれた年代はひとりっこが少なかったですね。お友達もひとりっこよりは兄弟姉妹もちのほうが多いです。ここでも多数決のマジックが働いて、ひとりっこ=Weirdo(へんな子)だとしてしまうことがありました。日本では少子化が進んで子どもがひとりだという家庭が多くなりました。そうするとみんながわがままになってたいへんだ!と未来を案ずる大人がたくさんいます。そうでしょうか?私はひとりっこであることはさしたる問題ではないと思っています。ひとりっこがそんなに大問題ならば、他の核家族化・離婚後の家族関係・再婚後の家族関係などなども大袈裟な問題になるし、それによって道徳や規範や社会そのものが大きくシフトすることがあるようであれば、普遍性のある「人類とは何か」から大きく離れて暮らしていることになります。私は人間を含めた生命体が本来そんなにナイーブなものであるとは思わないし、神代の昔から切り開いてきた真実への探求心の蓄積が家族形態や家族の数字くらいで変わってたまるもんか、と思っています。

もちろん本質を見ることをせずに、疑いや危険を孕むことを気にも留めずに、流されていく行為を重ねることもあるでしょう。それは人間であり、全能でないBeing(存在)である限り不可避なことです。けれども、それがいかにも自然の摂理であるかのように、「ひとりっこはわがまま」ではないんじゃないか、と私は思うのです。いやぁ、思うばかりではないですね。それは事実でははい、と断言しましょう♪(^○^)

1.他人とのInteraction(関わり)が少なかったからだとか>機会という数について。

どんな人間であっても存在がそこにある限り、どこかの環境に身を置かねばなりません。冗談でしばしば言うのですが、「名実共にひとりぽっちになれる場所」「社会のない世界」に逃げ出すことは残念ながらこれを読んでいるみなさんには難しいことでしょう。たとえPCに向かっていてもイデア(=考え、Idea)を一度身についた社会性を基にしてコミュニケーションをしている、という事実からは逃げられません。人間が2人以上集まれば、それは立派な小社会の成立になります。ふたり以上の人間がInteract(関わる)ということで相互関係を築いている状態が既に社会なわけです。まったく人間が居ない場所に身を置くというのは、口で言うのはたやすいですがなかなかたいへんなことです。

さらにこの「他人」という観念ですが、定義としては、個体以外の存在はすべて他人と大義でみなす私には、親であろうが兄弟であろうが他人は他人なわけです。大きな他人のなかに家族や親戚やお友達がいる、という解釈をしています。けれども自分の世界の始まりは誰にとっても自己であることは動かせない事実でしょう。ネコであろうがわんちゃんであろうが、虫であろうが、それは「他」とのInteractionです(人とみなすかどうかは個人の見解によります)。

他人:1.血筋の繋がらない人。親族でない人。2.自分以外の人。3.そのことに関係のない人。当事者でない人。

夫婦は血筋が繋がっていないわけですから他人です。けれども親族なのか?そうではないでしょう。それでも自分のパートナーを他人とみなすのが少ないのはなぜでしょう。養子は他人でしょうか?血が繋がっていません。ペットは生命体のなかの別種であっても家族とみなす人はたくさんいます。

この「ひとりっこ=わがまま」を真理にしないためには、個が孤立している状態を少なくして相互関係を築ける環境に身を置けばいいわけです。順応のための基礎はどんな子どもにもあり、大人でも毎日のようにアジャストメントのための苦悩はしているはずです。ひとりっこであろうが新入生であろうが外人であろうが関係ないことです。機会が少ないと思ったら与えればいいだけの問題です。シンプルなことです←それがむずかしくなっているという世情があるとしても逆らえばいいわけで…。

2.同年代に近い子どもとのInteractionが少なかったからだとか>またもや数について。プラス、子どもと大人の世界の質の違いについて。

同年代に近い子どもとの関係も与えればいいことです。公的機関では義務教育があり、その他にも託児所・保育園・学童所などもあり、趣味にまで広げればサッカー他のスポーツのチームや習い事などもあります。地域の振興や交流が少なければ自分から活発にすればいいことだし、結果としてたとえ活発にならずともそれを子どもが見ているということだけでも宝物になることではないでしょうか。

子どもの世界も大人の世界も大筋ではそうそう変わらないと私は感じています。新陳代謝は確かに死にたくなるほど下がりましたが、やりたいこともやっていることもそうそう変わらないっていう私に問題があるのでしょうか?(-_-;) おもちゃの種類は変わったし、語彙は増えたし、お酒も飲むようになりましたが、心の動きはそうそう変わっておらず、日々かたつむりほどの進歩しかないとたま~に嘆いているところまでおんなじです。むしろ、今よりも子どもの頃のほうが身体で覚えることに関しては研ぎ澄まされたモノがあり、今はそれを思い出すのに必死ってところでしょうか?いい気になって忘れてしまっただけであると思っています。呼び覚ませばすぐに戻ってきて私を腹筋やクロールやドッヂボールのトリコにし、ガリバーや明智探偵や三蔵法師に話し掛けるところもそう変わりはありません。

多少の智恵がつき、知識が増えたもののその基本的は同じです。いやなことをしたら謝ることや、素直でいることや、他人を尊重することなどなど、何も大きな変化はないように思います。きれいな嘘、ためになる嘘を学ぶのが大人であるならば、私はそんな大人をめざしていないのでどうでもいいです。遠慮や配慮しすぎることで自分が損なわれるのであれば、私はそういうモノから自分を解放させてやりたいと思っています。誰かが私のことをじゃりんこチエだと表現したことがあるのですが、今でもじゃりんこチエでいても遜色ないと思っています。コテツのかわりにうどちゃんがいます♪(^○^)

もちろん育つ過程でいろいろないやなことがありました。両親はそれを隠すこともしなければかばうこともしてくれませんでした。今はそれにたいへん感謝しています。問題が起きても自分で必ず解決するようにとただ後ろに下がって見てくれていただけで、どこに行くなとか誰と遊ぶなとか制限をされたことはありません。そうしていろいろな人とつきあってきました。年上の友人がいることを歓んでもくれたし、年下の友人がいることも歓んでくれました。ちなみに父にも母にも腹を割ってつきあえる友人はごくわずかしかいませんでした。それがいかにさみしいことなのかをいろいろな形で見せてもらったことをよく憶えています。けれども彼らはいわゆるわがままな人たちではありませんでした。証拠は…、えっと、母といっしょに飲んだりしてみてください♪(-_-;)

子どもの世界と大人の世界の質を無理矢理変えているのは、大人のほうである、という事実に気づくことが大切であるかと思います。生命の危険さえなければ、私はどんどん外に出ていろいろな人々とInteractすることが大切だと思っています。

3.大人が子どものわがままを通させてきたからだとか>大人が子どもをコントロールすることについて。

これも大人によりますよねぇ。どの程度のコントロールが必要か、というのはその子どもによっても違うし、大人でも同じことです。パワーゲームではなく、まず、自分がいかに自分をコントロールできるか、という見極めが大切で、あることについてのコントロールが習得できれば大人がいちいち指図する必要もないことです。新しい分野を学ぶにしても、過去(子どもによってはとても短い過去ですが、とっても貴重な過去です)で習得したことを応用する大切な機会です。先回りしておぜん立てをしたり、レールを敷いてあげることは、親のコントロールの手中で操っていることに他なりません。子ども=守られるべきもの、という大雑把な観念に私は抵抗があります。「助けて」というサインがあるまでは助けることもないでしょう。「それじゃぁ遅すぎる!」と怒鳴る親御さんもいらっしゃるのでしょうが、この世に本当に取り返しのつかないことってそんなにたくさんあるのでしょうか?私はセカンドチャンス信奉をしているので、失敗どころかたくさんの挫折を経験していいと思っています。そこから這い上がれるのもまた自分の学習とその力のうちです。

こんな↑心配よりも、与えまくることのほうが、わがままになりやすいかもしれません。余剰が多く、何が大切で何がそんなに必要でないかがわからなくなるのかもしれません。私よりもずっと多くの財産を持つ子どもは確かに実在しているし(私の最大のおもちゃはこのネットができるソフトですからねぇ♪)、飛行機でファーストクラスしか乗らない子どもがいるのも知っています。(-_-;)生きている人間にコントロールされることもかなり苦しいことですが、モノやことに支配されるのもさみしいことです。お年玉の金額や学歴や収入やおもちゃの数などに左右されていては、本当にほんとうに大切な物事は見失ってしまい、環境が変わったときに順応できる力も殺げてしまうことでしょう←井のなかの蛙に通じる♪

ひとりっこだとシェアする必要がない、という物理的な事実はあるかもしれませんが、子どもがふたりいると愛情が50%50%に分けられてしまう、というのは大きな誤解でしょう。鬼子母神のお話にあるように、子どもが何人もいて、他人の子どもをさらって食べていた鬼子母神も自分の大勢のなかのひとりの子どもがひとりいなくなっただけで狂ったように探し、心を入れ替えたといいます。愛情というのは、愛すれば愛するほどに乗数で増えていくものであり、目減りするようなたぐいのものではないはずです。

このようなケーススタディ(別個にひとつひとつの場合を考える)が必要なことに対して、じゅっぱひとからげにしてしまうと、今に、「農家以外子どもはひとりだけ政策」をしている中国とどういうおつきあいをしていいのかわからなくなってしまう日が来るんじゃないか?と心配しているわたくしです。すごいっすよ。あんなに人口の多い中国がいつかひとりっこ軍団に統治されて、世界のわがままモノになるのか?(-_-;)

ひとりっこでいじわるなことを言われたことのあるみなさま、どうぞ安心してください。ただケーススタディされたら、ひょっとするとあなたはものすごいわがままである可能性もあります。(・・;)