よいことが続けて起きると不安?

03/07/2008 にアップした文章です。

 

私の尺度での「よいこと」というのは、他人様から見てみると、それほどよいことでもないのでしょうが(なにしろ、貧乏症なので、ささやかなことでとても歓べる・・・)、なんだかここのところ、よいこと尽くめなんじゃないか?と、不安にすらなってきています(笑)。人生や世間や地球の在り方を、ネガティブにそもそも捉えていて諦めているわけでもなく、大きな希望もあるし、可能性を追い求めてもいるのですが、それにしても、春が見えてきてからこっち、いいことがけっこう連続して起きている。うーん、なんだろう・・・。

 

吉事:めでたい事柄。縁起のよいこと。きつじ。慶事。

凶事:不吉な事柄。不幸な事柄。わざわい。

 

日本に戻って来て1年半になろうとしています。これまでの時間感覚は、長かったようで短かったので、いつもとなんら変わりはありません。楽しいことやうれしいことを体験している瞬間の時間というのは、感覚的に早く過ぎる法則性があります。逆に、つらいことや苦しいことを体験している瞬間の時間というのは、過ぎるのが遅い。ということは、長かったようで短かったというのは、それなりにつらくて苦労をしつつも、結局は楽しくうれしく過ごせたという成果なんだろう、と言って安全なんじゃないかと・・・。

 

ただし、これには元々の個人が持つ世界観というのが引っ掛っており、それが基準になっています。私の場合は、よいことよりも悲しいことやつらいことのほうが圧倒的に多い、という持論を、生涯続けて持ってきています。だからこそ、ヨロコビは倍にも数倍にもなると思っており、つらいことも続けて努力していけると思い込んでいます。これが正しいか正しくないかは、その個人の心の持ちようなので、あえて否定はしないでおいてください(ぺこり)。それでも私は自分を悲観的だとはまったく思っておらず、とても根拠がある楽観性を持つやつだとうぬぼれています。でないとやっていけないじゃん・・・とも(笑)。

 

お給料日を待ち望んでおり、どのくらい入るかを大雑把に計算していたよりも多かったので、ちょっとうれしくなり、さらに、当日、母に隠れてパチンコに行ったら、なんと8万8千円も勝ってしまい、その晩、飲みに出かけて奢ってしまい(笑)、その翌日は生徒さんたちとカラオケナイトだったのですが、とても楽しくてノンストップに6時間ほどはしゃいだあと、二日酔いだったのですが、二日酔い後、月曜日にもパチンコで6万も勝ってしまい、その後も、生徒さんの集まりやスケジューリング、新しい話や耳寄りな話など、ここのところ、「うがー」という落ちる話がないんだよなぁ・・・。飛び入りの翻訳のバイトも、実物が手元に届いたらとても簡単なもので、しかも得意な日本語から英語のものだったので、うれしかった・・・。だるま市も楽しかったし、図書館も楽しかったし、と、まだ1週間ほど落ちる話がないわけです。

 

とはいえ、私のよいことと感じる基準があまりに低すぎるので、という前提は無視することができず、「あまりに不安なため、さらによいことの基準点を低くして、気分がいいままをキープしようとしていないか?」という不安が(笑)。もー、どうして私はこんなにごちゃごちゃと面倒くさいやつなんだろうか?もっとシンプルに歓んで生きて、何か悪いことがあったら、すぐに立ち直ればいいじゃないか!と、もうひとりの自分が私を叱咤するんですが・・・。

 

そうなんだよねぇ。『となりの猫村さん』の第3巻が3月21日に発売されることもわかって、なんだかあの続きが読めるだけで倖せな気分になるっていうのは、それをよいこととカウントするのは、あまりに基準点が低いよねぇ・・・。

 

でも、おかずが豪勢なハムステーキなのに、サラダしか期待していなかったのに、さらにミネストローネがついてきたら、母に抱きつきたいくらい倖せを感じてしまうことは、いまさら止められそうもなく・・・(汗)。安いよなぁ(笑)。

 

不安:(1)気がかりなこと。心配なこと。これから起こる事態に対する恐れから、気持ちが落ち着かないこと。また、そのさま。(2)〔哲〕〔(ドイツ) Angst〕人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分。原因や対象がわからない点で恐れと異なる。実存主義など現代哲学の主要概念。(3)〔心〕 漠とした恐れの感情。動悸(どうき)・発汗などの身体的徴候を伴うことが多い。

 

↑こんなに大げさな不安じゃないにしろ、いつイヤな落ちる話が来るのかな、と、逆に楽しくなりつつあり、ここですら、低燃費消費型の自分を見つけてしまうことは、さらに止められそうにもなく・・・。何をどうしたらよいこととするのか?というのは、自分が願ってもいないし、努力もそうそうしていないことに対して、いいことが起きることで、運ということに繋がるのかもしれません。

 

期待をしないで、予測を値として持っていると、その意外な出来事には相当に歓べる。パチンコなどは、2箱1万くらい儲かればいいと思っていたのに、20連荘などが出てしまうと、統計学的に考えて、そうザラに起きることではないという確率を計算してしまうんですね。しかもまた近日中に9箱ずつ別のお店で2回出てしまったりすることは、さらに確率的には低いわけで・・・。頼んでもいないのに、なぜかお魚が続いたのち、ステーキは食べたいという気分まで盛り上がっても集中してもいないのに、なぜか母が読んでくれていたりすると、「いつもはひとりでTVに話しかけたりしているくせに、どうして魚が続いていることがわかったんだろう。すごいなぁ・・・」と、大甘な点数をつけてしまっており、実際に「よいこと」なのかどうかもブレてきたな(爆)。最初に定義したはずなのになぁ・・・(汗)。

 

たとえば、私の書いていることは、おそらく多くの人には伝わらないと思っています。なぜならば、私は躁鬱病で子どもの頃から混乱した子どもだったので、人に伝える術というものをかなり無視して、ひとりで駆け抜けてしまってきており、その後、やっと物事がまともにできるようになってきたかもしれないときに、英語を使うようになり、日本語での書き言葉がさらにぐちゃぐちゃになりました。英語と心理学を学んでわかったことは、私の不遜さには折り紙つきなところが大いにあり、「自分にわかっていることは他人にもわかっているであろう」という前提がたくさんあったということで、私はそれを修正しつつ書くように心がけてはいるものの、それが万民の頭と心にいつも通じるとは限らず。

 

だから通じたときには、それも「よいこと」に数えてしまっており、私の今の仕事は、生徒さんに物事を教えることですから、その機会の絶対数が多くありすぎます(笑)。何をやってもダメな時期でもなく、可もなく不可もなくな時期であれば、ただ相手が「わっかんないっ!」と表現しなければ、私はそのシグナルを見落としているだけかもしれず・・・。しかも、よいことばかりが起きていて私は上気していて、いつもよりもそのシグナルを見落としがちな傾向にあるのかもしれず・・・。

 

ということで、結論は、不安がらずともいいということになりました。エッセイを1本使って、このような結論にたどり着くというのは、オソマツ千万ですが、天才ではなく、努力のみでここまで来たやつにとっては、こうした活字の使い方はあるのだ、と笑ってやってください。あ、耳が抜けたことだけは、生物学的にかなりラッキーだったんですが←まだ言ってる(爆)。

 

やはりだるま市でだるまを買ったことで、運ということを考えすぎたのかもしれないとも思っています。あまりビクビクしないで、今からすぐにでも起きるかもしれない落ちる悲しいつらいことにもめげない、鉄の心臓を持ってがんばろうと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です