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エゲツない弁護士軍団?

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07/26/2007 にアップした文章です。

 

光市の母子殺害事件の差し戻し裁判が行われていますが、世間のもっぱらのターゲットは、弁護士軍団。私のテイクはどうなのだろうか?と、今日はかなり真剣に考えてみています。何がゼッタイ!という答えはないにしろ、遺族の代表者である夫であり父である本村氏には、身体に気をつけて、心を強く持ってがんばっていただきたいと祈っています。

いろいろな事件や問題を外側から見る人々であっても、なぜか当事者の中の誰かに、どうも自分を重ねて投影・投射する作業をしている、というのは、Freudの時代から言われてきたことです。ボクシングの試合であれ、学級会であれ、会社の会議であれ、社宅のゴシップであれ、なぜか人々は、「自分の一票」を当事者に投票するわけです。

投影:(1)物の影をある物の上に映すこと。また、映った影。(2)(比喩的に)ある物事を他に反映させて現し出すこと。(3)〔数〕 平面図形あるいは立体に平行光線を当てて、平面上にその影を映したもの。平行光線が平面(投影面)に垂直なとき、これを正投影、垂直でないとき、斜投影という。(4) (ア)〔心〕 ある状況や刺激に対してなされる解釈・判断・表現などに、心理状態やパーソナリティーが反映されること。(イ)「投射(とうしや)(3)」に同じ。
投射:(1)光をあてること。光をなげかけること。照射。(2)「入射」に同じ。(3)〔心〕〔projection〕自分の感情や性質を無意識のうちに他人に移しかえる心の働き。例えば他人に敵意を抱いている時、逆に相手が自分を憎んでいると思い込むなど。投影。

実際には、他人と自分は違うので、似たように見えても、ぴったり合致することはありえないので、ここのところを間違えると、複雑なプロセスを持つ問題や、階層が深く、何層にも織り成されている問題を見ているときには、論理性がどんどん崩れて、ズレこんでいきます。

光市母子殺害の差し戻し裁判について、ジャーナリストや批評家やその他、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、ジャーナリストの数名を除いて、私はこの点をすでに危惧している次第です。ゴシップと同じような厚みでしかないのか?自分の妻や子どもが殺されたらというPlane(平面)だけで考えていいことなのか?ということに、まずはブログを書いている人々は気づかないかな、と思ったりしているのです。中には弁護士という職業をしている方々のブログもあり、彼らのスタンスをじっと見つめるのですが、概ね、「言下に自分の意見を通そうとする」というような態度ではないことにはほっとしています。

ここまでおつきあいいただいている読者のみなさまは、すでにお気づきでしょうが、私は子どもの頃から、20代の半ばくらいまでは、本当に「話し相手が最後の言葉を言い終わる前に」、かなりきつく、かなり意地悪く、かなり絶対的に、自分の意見を言う、愚か者だったのです。当時は、主張するほどの骨もなかったし、ただただはき棄てていただけです。迷惑だったことでしょう・・・。大学に戻ってよかったことは数えられないほどありますが、これは、「救われた」と言えるほどの大きな点です。じっくり考えて、自分と他人は違うということ、なおその上、私などが手もつけていない、考え付くこともないような、大きなものや細かいものやいろいろな人たちが、この世にはたくさんいるのだということを、まずはすぐさま考えることにしているわけです。

これがあるからこそ、私は英語講師としてごはんを食べていけるわけです。私は耳が3ヶ月目に抜けましたが(すべての単語がある日突然すべて途切れて聴こえるようになる)、抜ける人のほうがずっと少ない。私は、コレだけではなく、あらゆる軸で、Bell Curveでは平均値のそばに属しません。なので、投射や投影などをしていたら、友だちもできないし、生徒さんたちには嫌われるし、まったくわからない授業展開になるし、会話もいつしか成り立たなくなるかもしれません。

光市事件に関しては、殺人を肯定するものではないですし、「母胎回帰ストーリー」というプレゼンに不快感も隠せないほどです。「それをやらせているのは弁護団だろう!」というご意見もその通りです、わかります。けれども、私はもうちょっと違う根本的なところを見て、「プロがプロらしく、たとえ7割以上ダメだろうと思っていても、それをオクビにも出さず、どんなに罵詈雑言を浴びても、クライアントを守るためならエゲツないことまでやるよ」という徹底した態度には、私としては学ぶところがあるのです。

ある人は、これを「死刑反対運動の一連のキャンペーン」だと評したり、「裁判員制度前のてこ入れ」だとしたり、好きなことを言っています。そういった一面も確かに、確実に、あるかもしれませんが、いろいろな思惑のコンビネーションであるかもしれず、そのTacticsやAim(作戦や意図)は実際には正確にはわからないことでしょう。

私はむしろ、更正プログラムがしっかりしていないことや、現在の教育や家庭の問題などが反映されていることの「結果」が見られる例として、弁護側が真実を白日の下に曝してくれればくれるほど、日本の病巣が見られる気がしてなりません。コレを機に、再犯防止や、犯罪防止、さらには、更正プログラムの充実などに、もっと行政が心血を注ぐことを希望してしまいます。特に、少年犯罪については、予防できることが山ほどあるはずですが、まだ今は、起きてしまった事件に関して、「およよ・・・」「うむむ・・・」と額をつき合わせて唸っているだけのような構図でしょう・・・(汗)。きっぱりと、参考ラインを設けて、殺人の意図性・残忍性・社会影響性などの指針の指数基準を作り、そのチェックシステムとしてプロの心理学者や教育学者等を行政専門に採用すればいいわけです。

「真実を知る・知らしめる」という点では、弁護団は特にエゲツないわけでもなく、プロらしい仕事をしているのではないでしょうか?真実を知り(ある人にとっての事実が真実とは限らないのですが、加害者にとっての事実を知ることで、真実を導き出すという方法は間違っているものではない)、それを将来に繋げていくことは、社会人すべての責任でもあります。「殺せ!」の大合唱はあまりに無責任すぎます。もちろん、遺族に冷たい行政の態度や法には、どんどんメスを入れてもらいたいですから、それについても本村氏やお母様に同情が集まるのは、いいことなのですね。裁判員制度前の作戦が、被害者およびその遺族や家族への思いやりや補償だとしたならば、本村氏の本意ではないにしろ、そのように弁護団の動きは確実に作用・機能しています。

高望みは諦めたほうがいいよ、とどこかで囁く声も聴こえるのですが、毎日まいにち、殺人事件の報道を目にするのはぞっとしません。Closed Society(閉ざされた社会)ではなく、Open Societyにすることで、聴衆としての影響力が遠いままではなく、影響力が反映するような社会を作るため、自分にとっての事実ではなく、真実を追求したいと思えるゆとりがあるとすばらしいのですが・・・。

もちろん、私にも共感能力があるので、被害者とその遺族の方々のことを考えると、胸が痛いです。けれども、被害者とその遺族の方々の想いや人生そのものを無駄にしないためにも、「口走り」「決め付け」はよしにしましょうや、とお願いしたいです。当事者になったつもりで共感することと、当事者ぶって決め付けることは似ているようでまったく違うことですもん。私も被害者側に立ったことがありますが、私の気持ちは回りの人はなかなかわかりづらかったようです。「そうなのよ、そうなの。わかってくれてありがとう」とうれしかったことは、ごくごく少なかった、と申し上げておきます。なので、かなりのお金を使って、完全なる中立者であるカウンセラーのセラピーに通ったんですね。

裁判の行方は見ていくつもりです。が、できることならば、私は誰もジャッジせず、あらゆる人にとっての事実を見て、真実に近いものを見つめる目を持ちたいと願っています。