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コンプレックスの根源

12/04/2007 06:00:00

私のコンプレックスは何なのだろうか?と、昨日は明白ではないものについて考えていたのですが、特になかった(笑)←ものすごいあっさりなのだけれども、紆余曲折はあったんだよぅ。ありのままを受け止めており、改善の余地があるものはしてきたし、直らないであろうことについては確認作業をしてきたし、改善できるものでもお足(お金)がなければ無理なものは、お金ができるようになったらやろうと温存してきてあり、けっこう前向き。日本語の劣等感の英語使いはちと混乱を招くかもしれない。コンプレックスという言葉は、=劣等感ではないのだけれども、どうも日本語は間違って誰かが輸入したようだ・・・。

劣等感:自分が他より劣っているという感情。⇔優越感
Complex: ━━ a. 複雑な, 理解[説明]しがたい; 複合の; 【文法】複文の.
━━ n. 集合[複合]体; 建築物の集合体[棟], コンプレックス; 【心】複合, コンプレックス; 固定観念; (理由のない)恐怖感; 【化】錯体.

英語で劣等感という複雑を基礎にした言葉を表現したいときには、inferiority complexと言わないといけないんですが、日本人のように日常用語として人々の口に上ることはほぼなく、精神用語として分類されている語彙です。どうして日常会話の中にないのか?18年半のアメリカ暮らしを今思い返してみても、「欠点」「劣等感」などという語彙は、簡単には出てこなかったし、心理学の授業ですら、数度出てきただけである・・・。私の中では、日本人は簡単に「劣等感」という言葉を使う傾向が浮き彫りになってしまった・・・。

何度か書いてきた文化的な全体主義では、大勢の平均点を上げることを目的としており、個性を伸ばすことよりは、ひとりひとりができることを均一化し、安定性を求めていたり、職場であれば効率をよくしようとしているようにも取れるわけです。が、個人主義の場合は、大勢の平均点以前に、個性を伸ばし、ひとりひとりが自分のできることをできるだけやる、ということで、全体的な安定性はあとからついてくるもの、とみなしているところが大きいです。真の意味での競争市場、資本主義なわけですな。それこそ、弱肉強食のサバイバルなのです。

合理的すぎて安直だ、というご意見もあるでしょうが、自分にないものをないものねだりしたり、できないことをできるように努力することは、バカらしい、という極論に解釈してもらっては困ります。生物学的および物理学的な可能-不可能のラインは、合理主義の中には生きており、そこまではトライすることはするんですよ。それが子どもたちへの教育にあちこちに散りばめられていますし、それ以上を強いてやることで、個人の資質を損なうことのほうが罪は大きいと考える教育者もかなりいます。が、その反面、宗教や軍隊など、日本の平均値よりもずっと厳しく戒律や規則を求める小社会も点在しており、それが向いている資質を持っている人たちは、信じてそこへ属すわけです。合理的でしょう?選択肢なわけです。

なので、劣等感を超えるための淘汰は、かなりできあがっており、私がしょっちゅう慣れ親しんできた大学のような環境にあって、劣等感を口にすることが日常的にないのはこのためなのだろうな、という仮説が成り立ちます。

私の場合、こうして振り返ってみると、24歳のときに、渡るべくしてアメリカに渡ったことが、謎解きのように明解になるわけです。私は平均化され、統計になることが、たまらなくイヤだった。誰かと比較分析されやすい環境に自分を置くのが途轍もなくイヤだった。テンデンバラバラな状態でも均衡が保てる社会の中に、混ざりこんでしまうことで、自分の資質を伸ばそうと試みた、という希求へと繋がるわけです。

私が他人様よりできないことは、おおっぴらにたくさんあります(笑)。まずは、楽器ができないこと。小学校で学んだソプラノリコーダーやカスタネットやトライアングルや木琴程度しかできず、購入したのちにレッスンを要するような楽器は何一つできません。さらに、絵。絵心がないんだよ(爆)。ひまわりとチューリップ以外の花は、他人にわかるように描けないし、動物もキリンとネコしか描けないですな。太陽なのか月なのか、自分で描いていてわからなくなったりもします(笑)。掃除も大の苦手です。キリがないのでやりたくない。どこかで、私は完璧主義の芽を持っているので、こうした目標がはっきりしていないアクティビティは全般的に苦手なのです。どこが終わりかわからないもの。何がすばらしいか種々様々なことはかなり苦手です。

アメリカに行って太ったことも、今はコンプレックスに入れていいのかもしれないですが、入れていません。自虐ネタにするわけでもなく、淡々と事実として受け止めていける感じになったのはいつ頃なのか?やはり椎間板が2枚なくなってしまい、その後、運動が思うようにできなくなり、無理をすれば歩けなくなるという条件がついたからなのだろうと思うのです。なぜそもそも太ったか?というのは、割合としてビーフよりもポークのほうが日本との比較の割引率と価値、という点で、ポークのほうが高いという理不尽さは、24年以上慣れ親しんだ貧乏舌は抵抗できず・・・。アメリカ文化にすっかり慣れ親しみ、ビーフ大量摂取を導入することも可能だったのかもしれないですが、私はできませんでした。しかし、バターとマーガリンの割引率と価値には簡単に納得し、バター導入したんだよなぁ(爆)。こんなことをしており、やっぱり太った(爆)。和食は高いので、いつも清水の舞台から飛び降りる羽目になってしまい、全面的和食を通すわけにも行かず・・・。まぁ、言い訳ができるというのは、安心できることなので、コンプレックスとしては心の粘着になっていないようです。

西さんはまったく体重が変わらないのよ・・・。私が西さんの自慢を対外的にするのは、23歳のとき入社式に着たスーツが、49歳の今でも着られるということなのです。めったにいないでしょ?(笑)それほどノロケには聴こえないだろうし、ただのDNAかもしれない要素もあるし、まぁ、いいのね、褒めるポイントとしては(爆)。

でも、いつしか初めてアメリカに渡ってから20年になろうとしている今、私にはコンプレックスはないよな、と。長所が短所になる場面にも山ほど出遭ったし、欠点がうまく出る場面にも山ほど出遭ったし、人によっては欠点を愛でてくれて、おもしろがってくれる。私はいわゆる「(どうでも)いい人」ではないのだ、とわかったこともなんだか楽しい事実なのです。嫌われるか好かれる、どっちかに居るというのは楽しい。誰にとっても害もなく、愛もなく、ワクワクもなく、という存在ではないらしい。遠ざけたいか、近づけているうちはうんと楽しみたいか、という存在らしい。いいじゃない、価値あるじゃない、とほくそ笑むことができるのですね。だから、遠ざけたいと嫌われる箇所に関しても、特にコンプレックスにはならぬのだった・・・。

いろいろな人が共存していて、場所や人々をシェアしている、という事実に、心から納得できれば、特にコンプレックスを持ち続ける必要性もなく、それに躓いてばかりいて失敗を重ねる愚かなこともせず済むわけで、これだけ国際化したり、通信・輸送が進み、少なくとも江戸以前、明治や大正、昭和初期のような悲しいストーリーは生まれないはずの環境に生きているわけよ。だったら、ある程度の比較研究を重ねたあとは、もう比較がどの程度しか参考にならないのか、ここに見切りをそれぞれがつけることですわい。

他人と同じクローンがたくさん居れば、為政者のほうはラクだろうけれども、クローン自身はおもしろくはないよねぇ・・・。だったら、なぜに人々は自分たちが「優秀なクローン」になろうとするのか、私としては意図がわからないところです。凸凹があってこそ人間なのだ、とはっきり言えてしまう教育者が尊ばれるようになる世の中は、やはりどこか歪んでるわけで、そんなことは言わずもがなの当然の自然の摂理だったりするわけだ。美容整形がこれほど繁盛するのはどうしてなのか?塾がこんなにもすごい産業になっているのはどうしてなのか?コンプレックスを上手に商売にしている側のほうがすごいのか?それともお金をどんどんつぎ込んでいるこちらのほうがバカなのか?うーん・・・。どうだろうね?考えてみたほうがいいかもしれないですぞい。

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