ネガティブな感情の行き場

01/31/2008 にアップした文章です。


私はここのところ、「疲れた・・・」以外にそれほどネガティブな感情が芽生えることはありません。ただし、他人の話を聴いているときに、もらってしまうことはあります。そんなとき、必ず「今、言ってすっきりするなら、いくらでも聴くけれども、長い目で見たら、やっぱりネガティブな感情を持つことは、自分のためにはならないよ」と、必ず厳しく言いますね。ネガティブな感情を持っているときには、やはり自分のことは棚上げしていることが多く、他人の悪い分を多く考えがちです。犯人探しゲームに参加していることに気づけないでいる。そして、悪循環が停まることがなく、どんどん自分を疲れさせているように、どうも私には見えてしまうわけです。

ネガティブ: (名) (1)撮影したフィルムまたは乾板を現像したときにできる画像。また、そのフィルム。白黒写真では被写体と明暗が逆、カラー写真では色相が補色で表される。ネガ。陰画。(2)電気の陰極。⇔ポジティブ

(形動) 否定的であるさま。消極的なさま。

感情:(1)喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分。(2)〔心〕 ある状態や対象に対する主観的な価値づけ。「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと、「快い」「不満だ」など主体自身に関するものがある。また、一時的なものを情動、持続的なものを気分と呼び分ける場合もある。→かんせい(感情)

否定的:打ち消す内容をもっているさま。否定するようなさま。

ポジティブ(+)ネガティブ(-)で便宜上表現できるものは、場合やメンツや時間などを変更した場合、逆になることは多いのだ、とこれまで何度も書いてきました。誰かの欠点は同時に長所にもなりえるし、長所や美徳だと思えるものは、ある人やある場面では欠点ともなりえる。そんな当たり前のことを念頭におかずに、なぜだか、人々はみんなで批評家になっているわけです。

その基盤になっているのは、論理ではなく、たいていは感情的なものが支配しており、肉体的疲労や物理的傷害なども加味されて、なぜだか犯人は自分ではないし、自分が生じさせたものでもないと思いたい。それがSelf-worth(自己価値), Self-esteem(自己尊敬心)の中心になっているとも書いてきました。

ここで忘れてはならないのは、自分が自分のことを価値が高い存在だと思いたく、自分で自分のことが好きでありたいと思うのと同様、他の誰しもが同じように思っているわけです。それでも、なぜだか無意味に比較をしてみたり、競争のようなことをしてみたり、犯人探しの探偵まがいのことをしてみたりする。

いや、私はミステリ好きです。犯人がわかると楽しいです。ただし、最近はどんなものでも犯人がすぐにわかっていまうので、あまり楽しくもないです。うーん、数年前まではモノによってはかなり楽しんでいたのだけれどもなぁ・・・。1年前に横溝正史と江戸川乱歩を30年ぶりくらいに読み直したのですが、やっぱり記憶ってすごいものです。ほとんど記憶していたし、それでもトリックや論理で楽しんだとは言えるものの、犯人はわかったなぁ・・・。陽さんにご紹介いただいた京極夏彦も、最初の数作はけっこう馴染むのに時間がかかったように思えたのですが、3作目くらいからはわかるようになってしまった・・・。

現在、いろいろな問題点を見る機会があるのですが、受験生の親御さんたちは、小さいうちに志望校に入学してしまえば、あとの苦労が少ないから、とお尻を叩いているわけです。それがいかに浅はかな考えで、弊害が大きいかは、時間をかければ説明できるのですが、ただの講師としてはそんな親心を全否定することはできません。せめて、受験前にたっぷり眠ってもらえたり、精神的負担を軽減してもらえたり、おいしいごはんで会話が保てるような環境を、親御さんにオススメすることくらいしかできず、それぞれの家庭の方向性や考え方に対して、私がどうこう言えるかどうか?というのは、コミットメントする覚悟があるかどうか?に掛かっています。

面倒くさいのは、立場とか権限とかいうもので、私は自分が自由でいたいがために、それほどの権限を自分に持たせないように、日々邁進していること(笑)。仇になるのはこれで、能力的に認められる以外には、私の言葉は親御さんにまでは伝わらないわけです。だからなるべく結果が出るように、授業を進めていく。それでも、「それがあなたの仕事でしょ」程度にしか思ってくれない親御さんはたくさんいらっしゃるわけで、なかなか聴いていただけないことも多々あります。

子どもたちの中に、ネガティブなどうしようもない感情が溜まっていき、親が嫌いだ!というところまで行き着くのは、それほど意外な道筋でもなく、見ているととても悲しく思えます。

私はたまたまラッキーだったので、よく育つ要因をたくさん兼ね合わせた環境にいられたせいで、子どもの頃は、家で決められた仕事をこなしていた以外は、ただひたすら遊ぶために学校に通い、帰って来てからも遊び、遊び相手が習い事で忙しくなったら図書館に通い、ひとりで川原に遊びに行ったり、木登り訓練をしたり、中学生では部活が週6回というのを選び、やがて高校生になったらバイトを開始して、遊びに徹してきました。勉強はやらなかったものの、学習は日々してきたわけです。

幾人かの友人に、「どうやってそんなふうに賢くなったの?」とお世辞交じりもあるのでしょうが、聴かれることがあります。私の答えは至って明解で、「遊んだだけ。読書だけは人数倍したけれども、ただそれだけ」と答えています。そうすると「読書がキーなのか?」と聴かれるのですが、せっかくの大脳皮質を放置しておくことはないので、学ぶための後々の記憶や整理や要約などは日々鍛えたほうがいいので、「読書で充分でしょ」と答えています。毎日、ドリルをこなす必要もなければ、学校の進度を凌ぐほどの猛勉強などすることもないと思いますね。手段は何でもいいと思いますが、スポーツを1種と脳を使う課題を1つこなしていれば、子ども時代はそれで充分です。

そのおかげで、親には「適度に、基準+-くらい」しか恨み言は持たなかったし、生命や健康に危ういほどの遊びの誘いにも乗らなかったし、ネガティブな感情は、青春の重苦しい暗い気持ち程度にしか持たなかったし、「苦労は買ってでもしろ」と言えるようにもなって、進んで労働するようになりました。財産と呼べるものは、すべて頭の中といっしょに生きている人たちのハートの中にあるだけですが、それで、今大人になって言えるのは、ネガティブな感情は持たないで生きていける日のほうが圧倒的に多いということです。ありがたいと思うことだらけで、ある程度のHigh risk, High returnをやろうとする遊び心もあれば、論理的に物事を考えるゆとりもあります。感情的なことだけで他人を判断しませんし、自分が濁った偏った考えを持つ瞬間があることも、大前提としていつも認識していますね。

ネガティブな感情は持ち続けると、自分がダメになります。最初のうちは他人だけを責めていればせいせいするものの、いつかそれなりに賢くなってしまうと、自分が嫌いになりますから。そうなると、Self-worthやSelf-Esteemのジェットコースターライドが始まり、下がったり上がったり、本当に自分が面倒なことになります。それを廻りの人たちに撒き散らして生きて行ったら、「そして誰もいなくなった・・・」(Agatha Christie原作)になります・・・。

もしもネガティブな感情を持て余しそうになったら、早く根本解決してくださいね。まともに口を利かなくなった親子や友人たちがいたら、彼らのようになったときの自分を想像してみてくださいね。


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