フィンランド方式の学習法

02/16/2008 にアップした文章です。

なんだかすごい注目を浴びており、これ方式の学習How to 本なども、続々刊行の予定らしいです。うーん、なんだかものすごいなと思うのは、相変わらずの日本人のアンテナの高さ。商売としての輸入、というのが玉に瑕なのだけれども・・・(汗)。日本ほどジャズのCDやレコードの数が多い国はなく、むしろ、アメリカ人などは、日本にジャズ盤を買いに来るほどです。もちろん、そのコレクションの質もいいのでしょうね。私はかじっている程度なのでよくわかっていませんが・・・。という傾向を見ると、輸入に関しての学習欲というのは大きなものがある。そして、その対象物が、学習方法だったときに、どうなるんだろうか?と、不思議な気持ちではあります・・・。

http://www.projectfinland.jp/educator/index.html>挨拶その他

http://www.projectfinland.jp/educator/ProjectFinland.pdf>説明しています

ざらっと見ただけで、実際にログインをしてもいないのですが、これを取り入れて学校教育の現場で使う人は、きっと多くなっていくのだろうなと思います。フィンランド式といえども、実際は、もっと多様なのではないか?と疑っています。ちょっと真剣に調べてみよう。

基本のところから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

フィンランド語とスウェーデン語が公用語で、注目すべきは、何の積極的プログラムなしでも、男女同権意識が流布したということ。その反面、兵役では、男子にしか課せられたものがないということ。ふーむ、おもしろい。

http://www.aba.ne.jp/~sugita/160j.htm

http://www.kaigo-web.info/kouza/hokuou/no4/index.html

http://benesse.jp/blog/20050721/p1.html 進研ゼミのベネッセのブログでも取上げられています。企業理念として、しっかりその教えは生かされていくのだろうか?と疑問はあり。

http://www.news.janjan.jp/world/0701/0612290322/1.php 「平等と公平」という言葉をよく耳にします、とありますが、私個人は、平等はこの世にはごく少ししかないと思っており、公平にのみ邁進したほうがいいのだろうという結論に至っています。あまりに平等を意識するあまりに、自然の摂理に逆らいすぎることもあり、公平というのが最も適したゾーンなのだろうと。しかも、ここには「競争を止める」というのを賞賛しているのですが、競争のない社会というのは存在意義そのものからのひっくり返りでしょう。

地球の成り立ちや、進化の中、共存や共生はできても、弱肉強食のない世の中はありえない。「ライオンやチーターという種ならば絶滅してもいいよ」と言い放っているだけではなく、「ヒトだって要らないじゃん」と言ってしまうようなものなのですから・・・。どのような競争の仕方をすれば、共存共栄が叶うのか?を子どもたちには教えていかねばならず、大人たちは考えていかねばならぬはずです。あるものを無いと言ってしまえるような、愚かな前提から、物事を引き出すようなことをして、100年後や1万年後のことを考えない人類であってはいけないはずだし、この大脳皮質が縮んでいってもいいような暮らし方をしてはいけないはず。いや、いいと思うヒトはいるんだろうなぁ・・・←弱気(爆)。

私が非情にアグレッシブな人間なわけではなく、当然の法則というのは無視しちゃいかんよ、というのを、まず提示しているまでです。いや・・・。私はやはり非情ではあるし、攻撃的でもあるかもしれない・・・。とはいえ、意味なく他人を攻撃することはないのでご安心を♪

とはいえ、国という大きな単位で成果が出ていることはすばらしいです。このPDFのカリキュラムの組み立てを見てみても、「なんだかできそう・・・」ということが多いです。特にものすごく突飛なことをやっているわけではなく、当たり前のことをどのように教えるか?ということなのでしょう。「どのように」というのが曲者で、その主旨は、「自発的に学ぶ」ということなのではないか?と、強く感じているところで、平等やら比較や競争をしない、とは違うんじゃないかと思うのです。

http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200502250173.html うーん、朝日の取上げ方も「比較・競争とは無縁」と書いてある・・・。これは、おそらく、他人と比較・競争する日本の受験制度や、物事への態度の在り方を批評してのことなのだろうけれども、「昨日の自分と戦うこと・自分の可能性と闘うことが肝心で、他人は関係ない」というのは、私は10代前半からやってきていることなので、新鮮なオドロキのように言われてもなぁ・・・と苦笑してしまうのである。そして、そろばん塾や学習塾に通うお友だちが増えてくると、どんどんその距離が遠くなることを感じつつ、私はやっぱり自発的には勉強はしてこなかったし・・・。自発的に学習してきたことはたくさんあったのだけれども、それが学校の通信簿にそのまま反映されてきたとはまったく思わないでいます。

大人になって、英語集中学校に通ってから、「なぜ?」「どのような過程を通って?」と疑問を持つ人間に育ってよかったなと思ったのは、語彙を身につけることひとつだけ取っても充分な価値があったと実感したこと。私はこうして、独り相撲ではあったのだけれども、ひとりだけで個人主義を徹底してきたので、アメリカにもすぐなじめたのだろうし、アメリカに行ってからの学習が、とにかくおもしろくて仕方なくなったのだろうと、後付理由として考えられるわけです。

今、教える立場にいて感じることは、やはり英語学校ですら、誰かのTOEFL,TOEIC,英検の点数と、自分を比較しているヒトは多いんだな、ということ。横並びの比較ではなく、自分が辿ってきた道のりの縦比較をしたほうがずっと建設的なので、初めて学んだ教科書の登場人物を憶えているかどうか?の質問をしたりしますし、教科書が三省堂だったかどうかとか、英語の先生の話を訊ねたりします。そこで、横にいる人々ではなく、あくまで自分の蓄積やプロセスを省みてほしいと思っているわけです。

昨日も最後の受験生を送り出したのですが、そのときに言った言葉は、「1週間に1冊、日本語の本を読んでね」と英語の講師なのに言ったわけです(笑)。さらに、「英語に関しては?」という質問には、「就職前にTOEICの点数を取りなら連絡ちょうだい」と(笑)。最後に、「それよりも先に、バイクの免許取って、事故らないような技術を身につけて、いろいろなところを暇な教養課程のうちに見て廻るんだよ。そのためにはバイトがんばってね」と言っておきました。

私はこういう緩やかな人間なので、どうして非情でアグレッシブに見られてしまうことがあるのか時としてわからないのですが(笑)、まぁ、塾が当たり前の時代ではなくなったほうがいいとは思っていますね。学校の勉強で充分だと思えるような教育現場が作れることが、本来の理想形ですから。そういう意味では、フィンランド方式万歳!です。

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