マナーのマニュアル化

11/27/2007 にアップした文章です。

以前しかつめらしく書こうと思っていて、すっかりその気がなくなってしまったのですが、マナーとは何か?ということ。私は礼儀知らずの人間の部類に入りそうに一見見えるのですが、実際のところ、マナーはしっかり身についています。どうしてそんな錯覚を引き起こさせるのか?というのも不思議でしょう?貧乏モノだから身についていないというのも間違いだし、サービス業だから身についているというのも違う。元々はどんなところから始まったのか?マナー教室って未だにあるのかなぁ・・・。よしっ!検索してみよう。

マナー:行儀。作法。礼儀。
行儀:(1)作法にかなうかどうかという点から見た立ち居振る舞い。(2)おこない。しわざ。したこと。(3)〔仏〕 法会や修法の定められた方式。
作法:(1)礼にかなった立ち居振る舞いのしかた。(2)物事を行う方法。やり方。(3)しきたり。慣習。
礼儀:(1)社会の秩序を保ち、他人との交際を全うするために、人としてふみ行うべき作法。礼節。→礼(1)(2)謝礼。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BC
なんだか論議しているページらしいのだけれども、読み進めてどこが論議対象なのか見てみるのもおもしろいかも。ふむふむ。この手のことを論議にしているのか・・・。

確かに、他人を紳士・淑女として扱い、自分ができうる限りの態度で気分よくしていただく、という心持は忘れてはならぬことだと思うのです。ただ、他人を主体にしてばかりいて、自分の不都合を我慢し続けてもいけないとは思うので、誰かがマナーをマニュアル化するのはいただけないことだなぁとは思いますね。よくよく考えてみろよっ!とは言いたいかもしれないです。

たとえば電車の中でごはんを食べることは、長距離ならよくて短距離ならマナー違反というのが、もしも是であったとしても、ある人が、電車で在来線を使って長々乗り換えているとしたならば、彼や彼女はどこで駅弁を食べたらいいんだろうな?と、私などは屁理屈小僧なので思ってしまいます。でも、移動時間を短縮したいし、お金もないし、レストランには入れないし、寝るのも食べるのもできるだけ車内で済ませたい、という旅人はいるに違いない。新幹線や1時間以上の長距離の例です;小田急線などは最小時間で新宿-小田原1時間9分、各駅で1時間53分、料金は1720円と850円。新幹線になると、46分で3440円。湘南ラインは1時間40分で1440円。この44分の速さと駅弁を食べてもいい自由を、1180円や2000円の差額で買っている、と考えていいのか?と、私などは考えるのです。どうなんだろうね?この格差は、最高値と最安値で、2790円もあり、時間は1時間7分もあるんですよ。人には人の事情がその時々であり、どれを使うのもありなのでこれだけ発達しているんでしょうから、マナーで絡め取ってもなぁ・・・と思うこともあり。

対人関係におけるマナーは、感情論が発端だと言えるのではないかと考えてみると、他人がモノを食べていることを「気分がいいとするか気分が悪いとするか」から、場所や時刻や利便性などを付け加えて行っているのだと思えるわけです。旅行で浮かれ気分でモノを飲み食いする人々と、日々の通勤地獄を味わっている苦痛を軽減したかったり、営業や仕事や目的がはっきりしている移動中のさまざまな気分を持っている人々の感情の違いなのでしょう。そもそも、新橋-横浜間の汽車ができたばかりの頃は、乗ること自体が珍しいことで、食べるだのマナーだのはそれほど確立できていたわけでもありますまい。

他人の事情というのを考えるゆとりがあれば、私は飲食などを指摘して、ヤイノヤイノ「マナーがなっとらんっ!」というのはどうなのかなと思いますね・・・。もしもダメであれば、在来線にはおおっぴらに「飲食禁止」とどこかに貼れるわけですが、長距離線があるのでどこもおおっぴらには書いてないわけで・・・。そこがマナーが左右するところなのでしょうね。

私も移動と移動の最中に、飲食店に寄れないときにはやっぱりポリポリとエナジー補給することがあるんで、このことについてはなぜか防衛している(爆)。以前に書いたサーモスを持っており、喉が渇けば飲んでるし・・・。ただし、おおっぴらにやっているわけでもなく、誰も私を見ていないだろうと思っていないと、さずがにできかねるんですが・・・。キャンディやガムはよくてパンのカケラはダメで、クッキーやおせんべは微妙というのは不思議ですし、そこまで誰も決め事はしていないのでしょうね・・・。

かたや、酔っ払いの限度に関してはなぜか自然と統制がついているようで、たまに吐瀉物を通報している人々がいますが、あれについて「気分がいい」とする人は、本当に統計学のzスコアの-3.33は超えているんだろうな、と思います(それほど珍しいということ。ただし、ここでもゼロではないことに着目)。

校長センセがいつだったか書いておられた、電車内でのカップルのキスや、若い女性の化粧などがなぜ気分が悪いのか、少しわかるような気がします。「見たくないという選択肢が行使できない」というのがパブリックの場所のつらいところで、どこまでをよしとするのかはそれこそ個人差で、多数決としてマナーになっていくんでしょうね・・・。

私はひたすら本を読んでいるので、他人が何をしていようが一向に気にしていない傾向にあるのですが、音や匂いは、視線を本に集中していても気になるときは気になります。ただし、子どもの叫び声やらお菓子の匂いは気にならず、口論や化粧品のきっつい匂いは気になるという、やはり個人差になるようです。男女がいちゃいちゃしているところを見るのは、本を持っていれば見る必要もないので、音を立てたりしなければまぁいいかなという無関心さなのです。それよりも、その男女が誰かに顔を見られてもいいということのほうが、なんだか不思議に思えるわけです。マナー以前に、「自衛心はないのか?」と思うのですね。化粧にしてもそうです。すっぴんを日ごろから誰にでも見せられる私が何を言う!というところではありますが、「何もかもあけすけに、誰彼かまわず見せることができる自衛心」というのが、危うげです。私にはマナー問題というよりは、生命体としての人の在り方がまずありき、なわけですね。それがない人々を見て、そんな人々が増えていくというのを見ると、他のもっとでっかい諸問題にこの先ニッポンが対処できるのか?と不安にはなるので、マナー問題というよりは、未来への希望が萎むという感じの不愉快さなのです。

たとえば、みんな簡単だからとお惣菜やインスタントを気軽に使い続けた結果が、いろいろなプロセスや経済効果を生み、いつしか全体的に日本の農業の衰退をもたらしたとは思っておらず、その自給率(自国で消費量を捻出できている率)が40%を割ったことに関して、まだ「農業の補助をするより、年金問題や他のことに使ったほうがいいんじゃない」と能天気な問題すり替えなことを言う人々は、大人でも実在するんですよ。マナーのように「みんながするから」に乗じて、「安いからいいじゃない」と損得理屈を採用した、個々のパワーがもたらした結果が、農業衰退なわけです。長い目で物事を見ていないってぇのはこのことです。見えないマニュアル化=流行に乗った結果なんですぞい。

ならば、人前で自衛することすらできない人々が増えたら、ニッポンはこの先どうなるのだ!?と、もんのすごい不愉快で不安になっていくわけです。私には子どもがいないのですが、姪っ子たちもいるし、ニッポンが消滅したりプライドを棄てたりするのは、とてもじゃないが見たくもないことなので・・・。いや、予測すらしたくないことなのですよ・・・。

というわけで、マニュアル化には反対なんですが、確かに個々の持つ小さい力の蓄積には、畏怖を感じてしまうマナー問題なのです。この全体主義の根幹はおそるべしなのだ。ちなみに、私は静岡にある父のお墓に行くときには、今後はレンタカーにしますが、以前までは、ロマンスカーで小田原までどんちゃん飲み食いをして、東海道線で静岡まで出ていました。母と叔母のお気に入りコースなのです。在来線で酔いを醒ますんだね(笑)。いや、レンタカーのほうが割安だし、速いよぉ。

11/27/2007 にアップした文章です。

以前しかつめらしく書こうと思っていて、すっかりその気がなくなってしまったのですが、マナーとは何か?ということ。私は礼儀知らずの人間の部類に入りそうに一見見えるのですが、実際のところ、マナーはしっかり身についています。どうしてそんな錯覚を引き起こさせるのか?というのも不思議でしょう?貧乏モノだから身についていないというのも間違いだし、サービス業だから身についているというのも違う。元々はどんなところから始まったのか?マナー教室って未だにあるのかなぁ・・・。よしっ!検索してみよう。

マナー:行儀。作法。礼儀。
行儀:(1)作法にかなうかどうかという点から見た立ち居振る舞い。(2)おこない。しわざ。したこと。(3)〔仏〕 法会や修法の定められた方式。
作法:(1)礼にかなった立ち居振る舞いのしかた。(2)物事を行う方法。やり方。(3)しきたり。慣習。
礼儀:(1)社会の秩序を保ち、他人との交際を全うするために、人としてふみ行うべき作法。礼節。→礼(1)(2)謝礼。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BC
なんだか論議しているページらしいのだけれども、読み進めてどこが論議対象なのか見てみるのもおもしろいかも。ふむふむ。この手のことを論議にしているのか・・・。

確かに、他人を紳士・淑女として扱い、自分ができうる限りの態度で気分よくしていただく、という心持は忘れてはならぬことだと思うのです。ただ、他人を主体にしてばかりいて、自分の不都合を我慢し続けてもいけないとは思うので、誰かがマナーをマニュアル化するのはいただけないことだなぁとは思いますね。よくよく考えてみろよっ!とは言いたいかもしれないです。

たとえば電車の中でごはんを食べることは、長距離ならよくて短距離ならマナー違反というのが、もしも是であったとしても、ある人が、電車で在来線を使って長々乗り換えているとしたならば、彼や彼女はどこで駅弁を食べたらいいんだろうな?と、私などは屁理屈小僧なので思ってしまいます。でも、移動時間を短縮したいし、お金もないし、レストランには入れないし、寝るのも食べるのもできるだけ車内で済ませたい、という旅人はいるに違いない。新幹線や1時間以上の長距離の例です;小田急線などは最小時間で新宿-小田原1時間9分、各駅で1時間53分、料金は1720円と850円。新幹線になると、46分で3440円。湘南ラインは1時間40分で1440円。この44分の速さと駅弁を食べてもいい自由を、1180円や2000円の差額で買っている、と考えていいのか?と、私などは考えるのです。どうなんだろうね?この格差は、最高値と最安値で、2790円もあり、時間は1時間7分もあるんですよ。人には人の事情がその時々であり、どれを使うのもありなのでこれだけ発達しているんでしょうから、マナーで絡め取ってもなぁ・・・と思うこともあり。

対人関係におけるマナーは、感情論が発端だと言えるのではないかと考えてみると、他人がモノを食べていることを「気分がいいとするか気分が悪いとするか」から、場所や時刻や利便性などを付け加えて行っているのだと思えるわけです。旅行で浮かれ気分でモノを飲み食いする人々と、日々の通勤地獄を味わっている苦痛を軽減したかったり、営業や仕事や目的がはっきりしている移動中のさまざまな気分を持っている人々の感情の違いなのでしょう。そもそも、新橋-横浜間の汽車ができたばかりの頃は、乗ること自体が珍しいことで、食べるだのマナーだのはそれほど確立できていたわけでもありますまい。

他人の事情というのを考えるゆとりがあれば、私は飲食などを指摘して、ヤイノヤイノ「マナーがなっとらんっ!」というのはどうなのかなと思いますね・・・。もしもダメであれば、在来線にはおおっぴらに「飲食禁止」とどこかに貼れるわけですが、長距離線があるのでどこもおおっぴらには書いてないわけで・・・。そこがマナーが左右するところなのでしょうね。

私も移動と移動の最中に、飲食店に寄れないときにはやっぱりポリポリとエナジー補給することがあるんで、このことについてはなぜか防衛している(爆)。以前に書いたサーモスを持っており、喉が渇けば飲んでるし・・・。ただし、おおっぴらにやっているわけでもなく、誰も私を見ていないだろうと思っていないと、さずがにできかねるんですが・・・。キャンディやガムはよくてパンのカケラはダメで、クッキーやおせんべは微妙というのは不思議ですし、そこまで誰も決め事はしていないのでしょうね・・・。

かたや、酔っ払いの限度に関してはなぜか自然と統制がついているようで、たまに吐瀉物を通報している人々がいますが、あれについて「気分がいい」とする人は、本当に統計学のzスコアの-3.33は超えているんだろうな、と思います(それほど珍しいということ。ただし、ここでもゼロではないことに着目)。

校長センセがいつだったか書いておられた、電車内でのカップルのキスや、若い女性の化粧などがなぜ気分が悪いのか、少しわかるような気がします。「見たくないという選択肢が行使できない」というのがパブリックの場所のつらいところで、どこまでをよしとするのかはそれこそ個人差で、多数決としてマナーになっていくんでしょうね・・・。

私はひたすら本を読んでいるので、他人が何をしていようが一向に気にしていない傾向にあるのですが、音や匂いは、視線を本に集中していても気になるときは気になります。ただし、子どもの叫び声やらお菓子の匂いは気にならず、口論や化粧品のきっつい匂いは気になるという、やはり個人差になるようです。男女がいちゃいちゃしているところを見るのは、本を持っていれば見る必要もないので、音を立てたりしなければまぁいいかなという無関心さなのです。それよりも、その男女が誰かに顔を見られてもいいということのほうが、なんだか不思議に思えるわけです。マナー以前に、「自衛心はないのか?」と思うのですね。化粧にしてもそうです。すっぴんを日ごろから誰にでも見せられる私が何を言う!というところではありますが、「何もかもあけすけに、誰彼かまわず見せることができる自衛心」というのが、危うげです。私にはマナー問題というよりは、生命体としての人の在り方がまずありき、なわけですね。それがない人々を見て、そんな人々が増えていくというのを見ると、他のもっとでっかい諸問題にこの先ニッポンが対処できるのか?と不安にはなるので、マナー問題というよりは、未来への希望が萎むという感じの不愉快さなのです。

たとえば、みんな簡単だからとお惣菜やインスタントを気軽に使い続けた結果が、いろいろなプロセスや経済効果を生み、いつしか全体的に日本の農業の衰退をもたらしたとは思っておらず、その自給率(自国で消費量を捻出できている率)が40%を割ったことに関して、まだ「農業の補助をするより、年金問題や他のことに使ったほうがいいんじゃない」と能天気な問題すり替えなことを言う人々は、大人でも実在するんですよ。マナーのように「みんながするから」に乗じて、「安いからいいじゃない」と損得理屈を採用した、個々のパワーがもたらした結果が、農業衰退なわけです。長い目で物事を見ていないってぇのはこのことです。見えないマニュアル化=流行に乗った結果なんですぞい。

ならば、人前で自衛することすらできない人々が増えたら、ニッポンはこの先どうなるのだ!?と、もんのすごい不愉快で不安になっていくわけです。私には子どもがいないのですが、姪っ子たちもいるし、ニッポンが消滅したりプライドを棄てたりするのは、とてもじゃないが見たくもないことなので・・・。いや、予測すらしたくないことなのですよ・・・。

というわけで、マニュアル化には反対なんですが、確かに個々の持つ小さい力の蓄積には、畏怖を感じてしまうマナー問題なのです。この全体主義の根幹はおそるべしなのだ。ちなみに、私は静岡にある父のお墓に行くときには、今後はレンタカーにしますが、以前までは、ロマンスカーで小田原までどんちゃん飲み食いをして、東海道線で静岡まで出ていました。母と叔母のお気に入りコースなのです。在来線で酔いを醒ますんだね(笑)。いや、レンタカーのほうが割安だし、速いよぉ。

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