不可逆性をもうちょっと考える

11/20/2007 にアップした文章です。

昨日も出した不可逆性ですが、たぶんこれにも誤解があるような気がしているところです。生命は本当に取り返しがつかないのか?否、輪廻転生を強くつよく信じている人にとっては、もしかするとそうではないのかもしれず、今の生という区切りを持たないのであれば、生命を絶っても取り返しがつかないとは考えないのかもしれない・・・。ここのところ、京極夏彦著作を読破しようとしており、哲学的な範疇がかなり網羅されているので、私も少し真剣に考えてみなければ、などと思うようになっており、既にあった屁理屈傾向に拍車を掛けているようです(自爆)。

不可逆性:元に戻らないこと
可逆性:ある変化を考えたとき、条件を変えるとその変化と逆の方向に変化が起こってもとの状態に戻ること。

そうか。これだけなのか・・・と改めてびっくり。英語はirreversibilityなのですが、心理学では、けっこう話題になることです。そもそも、ひっくり返せないことはどの程度あるのか?と、元に戻ることのほうを強く信じている傾向が前提にあり、そこから始まっているのかもしれず。なぜならば、この世の森羅万象・自然科学の法則性は、二元性にほぼすべてに近いほどに支配されており、「刺激」を与えられて反応する方向は、大雑把に分けて正反対の2種となり、そこから派生する微妙な違い・ささやかだけれども重要な違いについて考えるのが、心理学の全般的態度ということになっています。この二元性や法則性をどう理解して、どう実験を組み立てて実施し、人々の意見を聞いて正確な統計を取るか?ということがわからなければ、論文は審査委員会で撥ねられます。ゆえに、教科書に載ったり、新聞などでみなさんの目には届かない。

経験則のほうが確かではないか?と疑う学者以外の人々のご意見はご尤もです。が、これをシステマチックに論理が整然とした方法に則り、丹念にやる、というのがミソなのですよ。だからこそ証明ができる。この証明というところは、素人には「感覚・感性・だいたい」としか言いようがなく、せいぜいいくつかのケーススタディをプレゼンできるに留まってしまいます。統計ですから、その多かったことを法則性としていくのですから、経験則は世の中に溢れておらねばならず・・・。なので、頭の中に入っているファイルが整理整頓されており、適応する場やケースに活用している「応用者」がいれば、その人の言というのはかなり正確なのでしょう。

これまで何度も書いてきましたが、私は輪廻転生を信じたいが、誰も証明できていないので、「あってほしいとは思うが、ないと思いながら行動する」という選択肢を採っています。だから、偽善者であることも認知しつつ、殺生はしない。私などの手で元に戻せることではないとわかっているので、やはりもうタッチしないでおきたいのです。あとからその混乱を引き受けねばならぬのは誰でもなく私なのですから。保身の典型なのですが、一区切りあるのが、「己の実力を考えてはみた」というところでしょうか・・・。私は神でもそれに準ずるわけでもなく、その周辺にある仕事を生業としているわけでもなく、生命の重さそのものについて、ただただ証明できないがゆえに、漠然と「一旦奪ってしまったら取り返しはつかない」と頑なに信じているので、奪う側には廻らないわけです。私は外科医などにはなれぬし、巫女さんですらなれないです。

たとえば、男性の処女信奉傾向が、少し前までありました。いつ頃まであったんだろうか?うーん・・・。そもそも、婚前交渉が世間一般に認められるようになった頃にはすでに崩れたとは思うんだけれども、おそらく、建前と本音の違いだけであり、社会的なクラスや立場によって婚前交渉はどんな時代でも禁止されていたし、四民平等からこっちだけ、そのことにやたらとうるさくなったのが、鎮まった状態なのでしょう。処女や童貞は、一度きりのものです。これには不可逆性があります。戻らない。が、これについて、10代の頃にそれほど真剣に考えてきた人々はいるのだろうか?20代後半や30歳過ぎても、処女・童貞である人々というものの大半は、「不可逆だから大事にしてきた」というよりも、「大事にしすぎて行動範囲を狭め、チャンスを逃してきた」とも言えるんじゃないか?と。

そもそも、処女性や童貞性というのにどういう価値をつけているのか?で、戻せないと困るという考えになりますし、私はこれについては愚かしいことだろうなと思うのです。本人が大切にしている分には、特に意見もしませんが、他人から押し付けられた価値を鵜呑みにしたまま、大切にして行動範囲を狭めたり、チャンスを逃がしてきたりしてきたのであれば、本当にお気の毒・・・。

時間の流れと共に失われて戻らない物事はたくさんあります。が、それは誰かが奪うものではなく、時間の中で生きている生命体には避けては通れないことなので、それらについてどのように考えて行動していくか?は、やはり煮詰めたところ、個人に委ねられることになります。たとえば老い。私も眉間以外、まったくしわがない顔で気持ちが悪かったのですが、最近、寝不足が祟ったり、うつぶせで寝たり、前日塩分と水分をたくさん摂ったという認識がある翌朝は、目の下にしわが大きなたるみができるようになりました。これが老いなのね、と改めて感心していますが、これくらいであれば、共生してもいいな、と。いざとなったらヒアルロン酸だかなんだかの注入があるらしく(この前TVでやっていたのをめずらしくzappingしないで見てしまった・・・笑)、まぁ、他人を不愉快にしないのであれば、しわとも共生していこうと、この不可逆性についてはじたばたしない予定。ただ、努力するかしないか?というのは別物なので、以前ヨガでやったり、顔の筋肉のエクササイズは始めてみるか、と思ったりしています。ええ、顔のエクササイズが日本もここ数年らしいですな、上陸したのは。私は、以前やっていたのですが、PTSD以来まったくやっていないです(笑)。この10年くらいが大切だっただろうに(爆)。

そして、心の傷です。切り傷にも軽度なものと重度なものがあるように、心の傷も不可逆なものと可逆なものがありますね。そのラインは実際は、当人以外に決められるものではないようです。なぜならば、可能なことを不可能である、と決め付けてしまった段階で、もう努力もしなければ何の働きかけも行われないことになりますし、心理的ブロックが作用して、作用が最大限の力を発揮しなくなるからです。夢も同じで、叶うと思っていなければ叶わないですから・・・。叶うと思えば、計画に移し、詳細を検討し、障害を取り除き、自分の改造を行うんですものねぇ。

私もPTSDをやっていますし、生涯完治しない不可逆な疾病をふたつばかりすでに持っていますが、心の傷に関しては、馴らすことはできると思っています。完全に消滅させられるものではないにしろ、おとなしくしてくれているように馴らしていくことはできる。つるつるの肌に戻らずとも、ジクジクしたり血を流したりせねばいいんじゃないかと、高い目標や望みを掛けることがなくなったことで、とてもラクになっています。

可能性を査定するいうことが、不可逆性・可逆性を考える上で重要なポイントなのですが、本当に可能性があるかないか、どのくらいあるか、を考えるにあたって、悲観的-楽観的という性格も影響してくるのでしょうし、以前書いた世界観というのにも左右されます。経験則というのは確かに大切だけれども、それがすべてではないことや、経験至上主義にならぬように心がけることが大切です。この世にはたくさんの考え方が転がっており、本当に不可逆なものはそれほどないと思えたほうが、生きやすいように思えるので、私は楽観性に助けられて、不可逆でなければ、どんどんやるがよろし、という態度を今後もキープしていきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です