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世界平和を祈るんだけど・・・

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01/03/2007 にアップした文章です。

 

年の瀬が押し迫った時間帯に、イラクのフセイン元大統領の死刑が執行されました。新年がせっかく来るのになぁ、と、たいへんに不愉快な、スピーディーすぎる安易な解決法に、どうも納得が行かないまま、新年を迎えたままで、考えるのを少し控えたわけではなく、書くのだけを少し控えました。死刑執行をしたことで、まったくのところ、すでに人は死んでいるし、紛争にも油を注いでいるし、一体全体どうしちゃったんだろう?と思ったのは、私だけではないはず・・・。テロリズムに訴えるような思想の変え方を私は選びませんが、選んだ人について制裁を加える立場に自分があるのかどうか、を考えたときに、やはり立ち止まってしまうのです。

そして、ちょこっとだけチャンネルを合わせていた紅白でも、「いつか戦争のない世の中が来ますように」という願いを込めたメッセージが流れていたのですが、「ん!?」と思ってしまった私は、少しへそ曲がりなのかもしれません。いつの日か、本当に世界に戦争がない日々が訪れるのか?もちろん、願うというパワーは大切なのだと信じていますが、現実的に考えると、あらゆるがんじがらめの規制をしても、どんな制裁をしても、実際には、真の平和は訪れないだろう、という予測が立ちます。たいへんな悲観に思えるかもしれませんが、生命体の宿命である「生き延びること」やさらに「子孫を残すこと」などを考え伸ばしていくと、自然、このような結論に相成ります。

本能の中に根ざしているものをDNAの解明により切除することは可能になる時代は来るかもしれません。が、同時に、二元論に根ざしている、「差」や「違い」を機能にしている人体や普遍的な法則が崩壊します。怒りという感情をもたらす脳細胞とその付近のシステムを切除すれば、差を喜ぶためのヨロコビや穏やかさなどを感知する機能が下がります。アドレナリンだけではなく、他のあらゆる脳内ケミカルが低下することになり、ヒトがヒトになった歴史を崩壊させることになります。明確な差があるからこそ、人々は喜びをインスタントに感じることができ、複雑になった深かったり、いくつもの想いや考えが重なったりした問題については、それらのたくさんの情報を感情のレベルで処理し、喜怒哀楽を感じてきたわけです。が、ロボコップやターミネーターになっても、ヒトとして成立するだろうよ、と言われてしまえば、ネガティブと捉えられている感情を、DNAレベルで大改造することは可能です。

でも、コレには倫理委員会を経て、各国が納得しあい、地球レベルで、宇宙レベルで、物事を考えていくと、どうしても実現しそうにはありません。とても小さい次元で、自己犠牲がないじゃないかっ!と一喝されたとしても、私個人は、とてもじゃないですが、自分が生まれ持ったものを手術にて変造させることに、大いなる懐疑があります。なので、椎間板の出っ張ってしまったところを削るという切開手術ですら、8ヶ月も躊躇して考え抜いたし、整形手術は行っておらず(染み抜きとかほくろ取りとか、大改造レベルでなければいいのかもしれない、というスタンスだし、他人がやることについてはなーんの意見もありません。が、自分であれば、しわ伸ばしやその他、やっぱり最終的にはできないのだろうなと思うのです、生きることに支障があるもの以外は)。

そもそも、私のDNAには他人と違うところがあり、全世界の人口でも1%ほどのヒトしか持たないだろうといわれている疾病を持っています。100人にひとり。なかなか多い味方の数なのか、少ないのか、それは見る人によって違う数値になるのでしょう。紆余曲折があり、この病気を持っていることを、ここ10年ほどはありがたいと思うようになりました。他人より感受性が強いことや、洞察力があることなど、日々には生かせることが多いのです。ただ、自分でコントロールして閉じたり開いたりができないので、そこが困ります。若い頃には、生涯精神病院で暮らすことになったらどうしよう・・・と不安にもなりましたが、どうやら私のはとても軽い。投薬の量でわかります。とはいえ、私は生涯で2度しか長い投薬期間を持っていないのですが・・・。とはいえ、しなくてもいい苦労はたくさんしたように思います。言い訳が立ってありがたいことも多かったのですが・・・。

それでも、私はロボトミーやその他、自分に施される手術には、たいへんな抵抗があるわけです。なので、もしも強制的に、負の感情が発生しない脳みそにしてやると言われたら、逃げますね(笑)。

こんな経験のさなか、さらに、椎間板を2枚失って思うのは、生命体は学習すればきちんと望んだ通りに生きていけるということです。怒りの感情をわざと押し殺すことはないし、恨みやつらみや破壊本能など、別のFaucet(蛇口)から出してあげればいいことで、その配管は自分で行うことが絵に描いたように理想的だと思うのです。気の遠くなるような時間や、人並みならぬ努力が必要とされる感情もあることでしょうし、それを感情から一歩発展させて、考えとして、言動に反映させていくことはたいへんです。簡単だとは言えません。が、それができるキャパを持ったヒトに生まれてよかったと、私は思うのです。

テロリズムが悪いかどうかは、他人が決めることではなく、ひとりひとりがもしもHigher Powerがいるとするならば、その前で審判されることでしょう。フセイン元大統領は、コーランを手に取り、覆面をせず、自分の思想に誇りを持ったまま、絞首刑になったことを映像で見ました。ペルシャ語はわからないのですが、訳が正しければ、執行人を「この雑魚がっ!」と言ったそうなので、それも最後の審判にて汲みされることでしょう。彼が作った屍の数もまた、最後の審判には資料として提供されるはずです。

国家や世界の一員として、私は暴力や殺人を、死刑という極刑を以って断罪することを、どうしても賛成できないでいます。私個人も、死までは至らずとも、生きたまま魂の抜け殻になるような被害者にはなりましたし、そのために3年以上も棒に振りました。もちろん、この世は他人との比較ではないので、遺族の方々の想いや経験を、私と同じだとはまったく思っていません。が、しかし、殺してしまえばすべてめでたし、ではないことは、みんな知っているはずです。だのに、どうしてなのかな、と。

実際に、同時多発爆弾テロは現実に、すぐに報復として起きてしまっています。日本ほどの重きを置いたお正月ではないかもしれませんが、たくさんの人々が命を失い、家屋や衣服や食料に困っています。無論、イラクの首相が、国家の元首として決めた死刑は尊重せねばなりません。けれども、死刑確定後、たったの4日での執行には、どうしてもやはり納得は行かないままです。その影響力や余波、人々の脳裏に刻まれるいろいろな想いや考えを想像するに、コレが本当に最良の選択だったのか?と疑問を持たざるを得ません。

平和は祈るけれども、平和への道はたくさんあります。私が推奨する方法は、気が遠くなるほど長い時間がかかる道のりではありますが、私はどうしても着実な一歩を、わずかな歴史の時間を与えられているものとして、刻んでいきたいと思っているのです。でなければ、本当に『風の谷のナウシカ』のような時代が、地球にやってきてしまうかもしれない、くらいな脅威を覚えます。

だからこそ、日々、できることから考えようよ、コマメに気づくことから始めようよ、なのですが、どうもみんな急ぎすぎなのかもしれません。私も相当のイラチなのですが、こんなことにはとても気長です。あ、腱鞘炎ですが、じわじわよくなったと思うと、また派手に使ってしまい悪化、を繰り返しそうです(爆)。うーん、ここも学習が必要なところ・・・。老齢になってから、関節でコレを繰り返すと、まったくよくならないですからね・・・。肝に銘じてがんばります♪世界平和を祈りながらも、自分の分際に合った方法でやっていこうと思います。