事実誤認が重なると

02/06/2008 にアップした文章です。

現実の世界と架空の世界は、だんだんその境目がなくなってきているようです。私が子どもの頃は、そういったテーマを扱った小説があり、その後、アニメ・コミックへと発展していき、TVでもどんどん扱うようになり、今はインターネットがあるので、動画でその実像ではない作り物をどんどんと創造力&想像力を具現化していくことができます。その恩恵のよそに、副産物として、事実誤認が増えているというニュース。けっこう怖いことなのかもしれないなぁと思うのです。軽い薬物状態の脳が、永続的になっていくのかもしれない、などと考えている私は、ちと大げさなのかなぁ・・・。

事実:(1)現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。

(2)〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

誤認:誤って認めること。ある事物を他の事物とまちがえて認めること。

架空:(1)空中にかけわたすこと。(2)事実に基づかず、想像によって作る・こと(さま)。

虚構:(1)事実でないことを事実らしく作り上げること。また、作り上げられたもの。作りごと。(2)文芸作品を書くにあたって、作者の想像力により、実際にはないことを現実にあったことのように真実味をもたせて書くこと。また、その作品。仮構。フィクション。

これを考えるきっかけになったのはコレ>

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080204-00000064-jij-ent

歴史上の人物と、虚構の人物をごっちゃにして、実在したかどうかを問うもの。海外の有名人は別としても、自分の国の首相だった人を虚構の人物だと思ってしまう人が4人にひとりも居るのは問題かもしれない。逆に、シャーロック・ホームズを実在の人物と思う人が約6割いたというお話。

日本でも、このような調査はおもしろいのでやってみるといいのかもしれません。ええ、心理学のいい分野です。日本でたとえると、吉田茂や池田隼人は実在しなかったということになりかねないようなものです。逆に、耳なし芳一は確かに存在したと思われていることになります。

原因はなぜなのか?という仮説ができあがります。すでに私の考えは書いてしまったのですが、文字しかなく、自分の頭の中のものを表現する方法は3種しかありませんでした。絵画や彫刻やモノ作り。その中には建物や料理なども入ります。もうひとつは、音楽。調べ・メロディだけなこともありますが、それには言葉を駆使したものもあります。もうひとつが、詩・短歌・俳句・小説いった文字使いのモノ。口伝のほかは、書面の上での流布だったものが、ここのところはインターネットのおかげで、タイプさえできれば一時的に画面に蓄積することすらできるようになりました。私も恩恵を授かっています。そして、過去100年弱で、映画ができて、そのコストが下がり、一般化したことで、少しの手間とお金さえあれば、突出した才能がなくとも、CGを駆使して具現化できるようになりました。それが大量になり、インターネットもでき、素人ですら、具現化できるようになったわけです。

そして、その量たるものや、ものすごい・・・。

ナイチンゲールが実在の人物だと信じなければ、彼女のような無私の献身を持てる人が居たという証明にはならず、Role Model(理想的人物像)とは数えられないわけです。「どうせそんな人いなかったんでしょ」と、最初から除外対象となってしまいます。他のどんな歴史上の人物に関しても、「いなかったこと」になってしまうのは、忍びない。

たとえ私ですら、「いなかったこと」とされるのは、少しだけイヤですね。歴史に名を残したいなどという野望はないですが、誰かの胸の中に、少しだけ生かせてもらえたらうれしいです。

動画の効果というのは、受け手側が意識している・していないに拘らず、とても大きなものです。大人であればまだしも、子どものうちに影響を受けてしまうと、脳内ケミカルのリズムはできてしまいます。Receptor(受容体)の数の増減や、プロセス時間の速さ・遅さなどにも大いなる違いが、蓄積により出てきてしまうことになります。いや、大人でも長い時間の露出があれば同じプロセスでしょうから、未だに毎日、この危険にはさらされていることになります。

子どもの頃に、私はマンガやアニメやコミックに嵌まるような贅沢がありませんでした。買えなかったのです。高校生になり、アルバイトをしていたある時期に、別冊マーガレットを毎月買っていた2年ほどがあったのですが、槙村さとるのスケートマンガが読みたかっただけで、あとは友だちに借りるしかなく、子どもの頃から借りたもので充分気が済んでいました。弟は、かなり長いあいだ、週刊モーニングを買っており、私も家にいる時間があるときにはちらっと読んでいましたが、読書量と比すると10%にもなりませんでした。

今でもコミックの類はあまり読みません。ただし、『きょうの猫村さん』は少し楽しみに待っています(爆)。

映画は、アメリカに行く前は、叔母に連れて行ってもらったものと、デートなどで見たものを合わせても、10本から20本のあいだくらいだと思います。それが、渡米してからは、毎月3・4本となり、家を購入してケーブルを導入したあとには、1日4本になったんですが、私は映画をTVの前に座って見るということは、家ではしませんでした。TVの前に座ってじっくり見るのは、土曜日の午後8時のみ。毎週ハリウッドのBlockbusters(超大作)が初めて放映されるときだけです。ただし、劇場で見てしまったものに関しては、座ることもしなかった・・・。劇場に行く回数は、ケーブルの発達と共に減るわけですが・・・。秀逸作品でなければ、集中して見ずともストーリーはわかるし、大人になるとやることが多くて、どうもいけません(笑)。私は、一度に3つくらいのことを常にやっているハイパーなやつなので、B級であればそれでいいのです。日本のモーニングショーやドラマも同じような見方をしています。

そんなわけで、私個人は影響をモロに受けないで育ったように思うのです。なので、頭の中での事実と虚構の映像化をするにあたり、決定的に違うことがあります。リアリティを伴うか伴わないか・・・。私の夢はありそうな出来事が起きていると、三次元が鮮明になっており、想像力で補っている部分が多いと少し平面ぎみになります。普段、覚醒しているときも同じで、想像だけの場合と事実のリピートである場合や事実に近いであろう想像の場合は、やはり頭の中の映像が違います。しかも、CGがすぐにわかるんですが、これ、視覚や脳に関連性があるんでしょうか?

こんな研究を発展させてやっていけば、おもしろい実験になると思いますね。社会や人類を担っている研究にも思えます。

みなさんの想像力と創造力はどうなっていますか?再現フィルムは正確ですか?虚構と事実はごっちゃになっていませんか?チェックしてみるのはおもしろいと思います♪

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