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人はなぜ家族をも殺すのか?

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02/06/2007 にアップした文章です。

 

毎日新聞で、離婚に関する記事を探していたら、それが見つからず、代わりにこのタイトルの記事(正確には、「人はなぜ家族を殺すのか?」を読みました。ふーん、って感じです。バカにしてはいけないって?そうですよね・・・。私は、「家族をも」「家族ですら」という意味でここにタイトルを直して書こうと思います。元記事はこちら。http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/ 他にもこのコラムでは、こころの問題をいくつか取り上げています。ちなみに、私は、これらをあまりなるほどな、と感心して読んではいません。

家族:(1)夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団。(2)民法旧規定において、戸主の統率下にある家の構成員。

このコラムでは、生物学的見地について、まったく触れていませんでした。進化心理学という分野は昨今できたものなのですが、しかも矛盾点が出てくる結果が往々にしてあるのですが、それもこの世の普遍的な仕組みである二元論を使っているからです。これは、シンプルな形で基本を考えるのに、たいへんに便利な方法で、どんな生命体であっても恩恵を受けています。しかも、その生命体の頂点に立っていると分類されているヒトは、この仕組みを使い、技術革新を重ねてきました。サーモスタットやその他、「物事の(特質の)差異を捉えること」で、技術を機械や工学に組み入れてきたのです。音を捉える技術などは、みんな毎日使っているし、視覚やその他も同様です。が、じっと考えて取り入れているのは、工学者だけではないのです。

二元論:〔哲〕〔dualism〕物事を相対立する二つの原理または要素に基づいてとらえる立場。神話や宇宙論における光と闇、陰と陽、哲学における形相と質料、現象と本体、宗教や道徳における善と悪、など多くの思想領域に見いだされる。西洋近代では、精神と物体を二実体ととらえるデカルトの物心二元論ないしは心身二元論が近代哲学を特徴づける枠組みを与えている。

心の分野も、まったく同じで、二極にある反対の性質を持つことに焦点を当てれば、かなり物事は捉え易くなります。たとえば、このタイトルにある「殺す」の反対は、「生かす」です。生物学的見地を交えて、説明してみましょう。普段は、かわいいの反対がブス、おいしいの反対がまずい、などで使っているのでしょうが、今日はちょっと真剣に考えてみてね(笑)。

すべての生命体の宿命はふたつです;1.自分のDNAを残すために子を作る 2.その子がさらにDNAを残すために子を生殖可能な時期まで育て上げる。このふたつは、生かして生命体が進化するための必須です。では、この裏にある生物学的逆説は何でしょうか?優れていないDNAであれば、1.子どもは作らない。2.もしも作ってしまった場合には抹殺する。とも捉えられます。これは、生命体の進化の宿命の裏で、効率性を求めるものです。足手まといになる個体に対してはたいへんに厳しい。

大昔は、「食べていけないから」という理由で、「間引き」が行われました。
間引き:(1)農作物などをまびくこと。(2)口べらしのために生まれたばかりの子を殺すこと。
ただし、ここにあるように、「生まれてから」だけではなく、おなかにいるあいだにも間引くための知恵は使われており、仕方なく、という理由ではなく、積極的に流れるように、妊婦たちが肉体労働をしたり、儀式として岩と岩のあいだをジャンプしたり、苦行に打ち克ってこそ子どもは生まれてもよいという徴になる、などというものが各地にありました。世界各地です。日本だけではありません。

これは、生命をハレルヤ!と祝福するためだけが能ではないという、逆説をも考えなければ片手落ちなのだという警告であり、特に「優秀でない種を持つ人間は殺せキャンペーン」ではありません。私など、真っ先に殺されても文句は言えないのだもの・・・。

もしも、この「サバイバル本能」の裏側に、二元論として、「個体としてのサバイバル本能と社会性が、及第点にいかぬのであれば同族や地球に迷惑をかけないような本能」が組み込まれていたとしたら?いや、組み込まれているのです。自殺という行為をするのは、ヒトだけではありません。哺乳類の多くにその現象は見られます。食べ物や睡眠の拒否や、ひとりで社会という群れから抜けていく行為など、動物界でも哺乳類だけに限らず、たくさんの種が自殺行為をしています。心中となるのが、昆虫などの多くが群れて生きている類です。

ここで社会性が始めて問われていくのではないのでしょうか?なぜ、人は家族をも殺すのか?となります。成人間際になるまで、あるいは成人を越してからも、サバイバル能力というのは常に問われ続けてきます。社会という大切な枠組みの中で生きていることも、長く生きて経験を積めば積むほど身に染みていきます。その社会が自分という個体に冷たかろうが、優しかろうが、自分のサバイバル能力はずっと問われ続けて、試されていくわけです。

しかし、発達しきっていないダメな個体は、同族や地球に迷惑をかけまくって生き延びていきます。それを見て、はかなむ同族がいても、本能的見地からまったくおかしくはないわけです。共倒れになってしまうから、社会性という義務の強さから、世間に顔向けができないから、などなど、いろいろな動機が考えられます。あるいは、ダメダメ同士が寄り集まっており、「もう俺たちは生きていけないよな」と絶望感にどっぷり浸かることすら考えられますし、自分という個体だけが生き残りたいがために、他人をドアマットにしたりする風景は、社会性が求められている種であるヒトにしろ、多く見かけられます。詐欺や多くの犯罪がそれですし、日常レベルでも自分ができないことを他人にしてもらうが、自分も補い社会に還元する、といった考えがない人々もいます。

そこで、ヒトの考えの小さい枠組みから大きな枠組みまでを考えてみましょう。個人→家族→小社会(会社・学校・友人の輪など)→県などの地域→日本国→アジア→地球→宇宙。ここまでのレベルで、自分が属すそれぞれの社会での立ち位置を考えられているのであれば、この「個体としてのサバイバル本能と社会性が、及第点にいかぬのであれば同族や地球に迷惑をかけないような本能」を使う場面は、あまりないかもしれません。さらに、決定的な致命的なほかのメンバーたちともうまくつきあっていけるのかもしれません。

こころが不思議なのは、すでに脳内に「多次元」を備えていることです。実際に移動せずとも、体験できる不思議な仕組みもあります。こうした自分で気づかないだろう本能さえも、すでに組み込まれているわけです。「家族は殺してはいけない」と、そもそも誰が決めたのか?ここのところに気づいたあなたはすばらしい♪最近、江戸時代モノばかりを読んでおり、品位のために死を選ぶことに慣れきっているせいなのか、自殺も家族殺しも、否定的ではないのです。

その本能を持っていることに気づき、それをうまくコントロールできる自分になること。それをコントロールできる自分を持っている人たちとおつきあいしていくこと。これが大切なのかと思うのです。世間のせいにしたり、ネガティブさを自分に限って持っていないことをしゃーしゃーと言ってのけたりするのはいけません。持っているんですからねっ。でなければ、尊厳死の権利すらなくなってしまうのだから、大切におつきあいください。