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他者のせいか、己のせいか その1

03/14/2008 にアップした文章です。

昨日もプライベートレッスンを、私に切り換えてくれた生徒さんがいて、もう8ヶ月以上通っているのですが、生半可な成果しか見られていないということは、ここまでの中途結論。ここで考えたのは、講師のプロとしての態度や生徒さんの資質と努力できる時間や経済的ゆとりやその他ですが、かなり好条件であることは否めない。私が出遭ったのは、わずか2ヵ月半前です。半年ほど、何をしていたのかと復水盆に返らずな気持ちなわけです。そこで話したのは、他者のせいか、己のせいか。彼は己のせいだと言ってくれました。

 

昨日の人為ミスにしても同じですが、人というのは間違いも犯すし、成長もし、無為に過ごす時間もあれば、有意義に過ごせることもあり、その微妙なギザギザな波の中で生きているわけです。失敗もすれば成功もする。統合的にどうであるのか?ということだけを問えばよく、その上に、時間やその他の物理的条件や(経済事情や有効な手段など)を付け加えたあと、人として自分の選択は正しいか?自分らしいのか?を考えるのが、私の方法です。

 

ここでまたぶち当たるのが、永遠の命題である、Nature vs. Nurture(先天的か後天的か)問題。実際は、人は自分の資質というものを、よくはわかっていないのではないか?と、ここまで大人になってつくづく感じています。

 

たとえば私は、楽器をやってこなかった。貧乏育ちに楽器を習うなんてことはもってのほかで、一時期、のんちゃん(近所だった幼なじみ)にくっついてオルガン教室を見学した揚句、母が捻出してくれたのですが、それほどの母の苦労を見るのもつらかったし、のんちゃんのお家とのバランスもズレており(のんちゃんの家は、女の子がピアノをやるのは「たしなみ」だと思っていて、当然なので、かなりな時間をかけていたし、お金もかけていた)、わずか3ヶ月ほどしか続かず、その後は一切の習い事は考えずに小学校5年まで遊んで暮したのです(笑)。あれが続いていたら、と考えるのは、What if(たら、れば)の世界なのですが、私には所詮情熱がなかったのだろうか?と思えるのは、その後、合唱部に中学で入り、周りの80%の人たちが何かしらの音楽に関連する習い事をしていたのにも拘らず、それでも「なんとかなっちゃった」ので、そのまま放置だったのです。他の人をさておき、120人中30人しか選ばれないコンクール要員になれたし、初見の譜面でもそれなりに歌えたので、努力をすることがなかった・・・。

 

それと同様なのが勉強なのでしょう。「やればできる子」と言われながらも、誰も「おまえの足長おじさんになってやろう」と子どもの頃は言われませんでした(大人になってから言われたんですが・爆)。それには、勉学に対する熱意の欠落や、資質が突出した域にあったわけではない事実があったのでしょう。

 

それでもやはり夢をこんなところで見てしまうのは、ヒトの性(サガ)というもの。もしも英才教育を受けていたら、だとか、楽器をやっていたら、だとか、運動をしていたら、などなどを想うわけです。まぁ、よしんばオリンピック選手になれたとしても、倖せだったとも限らないのですが・・・。

 

子どもに「積み重ねの存在」が理解できるのであれば、きっと子どもの頃から慎重で夢のない、現実的な英邁な努力をしていくのでしょうが、そんな子どもはむしろ私は嫌いだ(爆)。いますよ、たまには。勉強するのが楽しくて仕方がない!という子どもって。が、95%くらいは、「愛する親に言われているからやっている」「学校に通い続けるためにやっている」(学校が楽しく、友だちに会いたいし、部活をしたいからという意味)「まだ仕事ができるほどに育ってはいないから、勉強が子どもの仕事なんだろうと思ってやっている」などなどが大半です。

 

子どもには大人よりもずっとずっと選択肢があるのに、なぜか本人は選べず、親という庇護者が選んでくれてしまう。その親には、ヒトの資質を見抜く眼力があるかどうか?と問えば、「うーん、それほどないだろう・・・」と思える。だって、自分もまだまだ不幸だったり、迷ったり、悪戦苦闘は続いているわけですから。少し知恵があれば、専門家の話を聴きに出かけたり、独自にそれについて本などで学習したり、親のための話し合いの場を持つようにしていますが、どれほどの成果が上がっているのかは、それぞれに属していきます。

 

こうした混沌の中、子どもの頃のことを「他者のせい」と考える大人ができても不思議ではないですよね。「本当なら資質があったのに、小さい頃にやってこなかった」という復水盆に返らず論理が流行っていきます。

 

私は、他者のせいだとはまったく思わないんですね。それは、大人になってから、日本で19歳のときに入学した大学よりずっといいところに入り学んだこともあるし、死なないほどのパイロットスキルも身についたし、英語も話せるようになり、世界がもっと実践的に眺められるようになった。知恵も知識も驚くほど発達したし、身軽にもなった。ヒトとして、人としての生き方も自ら選んでいけるという自信もついた。なので、ほとんどのことは「大人になってからでは遅い」とはまったく思っておらず(実際に遅いことは、スポーツ関連や、いくつかの言語学習などの条件程度ですもん。たとえば、オリンピックに高齢で出たいならば、種目を選べばいいだけなんだわ)、他者のせいにし続けて、またもや貴重な時間を失っている人々を気の毒に思うのです。

 

立派な親に生まれなかったことを呪うのは、育ててもらった恩義をまったく感じていない証拠とも言え、私は両親がしてくれた精一杯を受け止めています。選択権をどんどん拡張して勝ち得てきた中、やはりすべては自分のせいだと思うようになりました。

 

大人である年齢に達するまでの学校を選ぶのは、確かに社会や大人の思惑に左右される割合は多いのでしょう。が、私のようなやり直し、敗者復活戦はできないわけではないです。みんなができるのか?と問われれば、根性がなければできないかもしれません。が、私の楽器と同じように、「ゆとりができたらいつかやりたい」とずっと念じているだけでは、まだそこまで気がないわけですよね。机上の空論であれば、誰にでもできます。もちろん、勝ち目の低い勝負に出るのは勇気が必要ですが。

 

私は、渡米については、勝ち目が低いとはまったく思っていなかったのです。悪いことは他者のせいにして、いいことは他者に感謝しないでいい、とは教わってこなかったので、きっといいヒトたちが私を導いてくれるに違いないとも信頼していたこともあり、覚悟は相当なものでした。そうだよねぇ。あれだけがんばって貯めたお金を使って、まったくの新天地に移動したわけだから・・・。

 

そうなんですよ。いいことは他者のせい(おかげ)と感謝するのはアリだと思うのですが、責任を他者のせいにするのは、潔いことではないのです。それに「同意」したり、流されたりして過ごしてきた、自分の責任というのも考えてみたほうがいい。そこで、たとえば、DVに抵抗できなかった等の心理的メカニズムがあれば、私も納得できます。それが積み重ねというものなので、考慮したほうがいいことはたくさんありますから。「他者のせいにしてはいけない」と一辺倒なことを言うつもりはありません。

 

あ、英語学校の生徒さんの話がまったく書けなかったので、明日も続きを・・・。

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