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信じながら待つということ

06/27/2007 にアップした文章です。

 

黙って信じて待つというのは、かなりたいへんなことなのだけれども、小説の中では、その題材はとても多いのである。私は今何を待っているのだろうか?しかも、信じているのだろうか?うん、待っているなぁ・・・。しかも信じているし・・・。気の長いドラマチックな待ち合わせで、10年後や20年後にある場所で、どんなことがあっても待ち合わせをする、というのを、約束したことがあるでしょうか?信じてそれだけの長い時間が待てるかどうか?私は、西さんを待てるかどうか、ちょっと考えてみました。

今、この年齢になり、若いときの焦りがないから、待つことはそれほど苦ではなく、実現する計画や夢のために、努力をしつつ日々を暮らすことも、まったくのところ「当たり前」になってきたので、10代や20代前半くらいのように、ジリジリした気持ちになることは、長い目で見るとないなー、と思っているけふこの頃。

いや、ひとつだけあるな、信じて待っていないこと・・・。最近はパチンコがそうである。なので、やる気が起きないのでしょう。ここのところ変則的な台に3回続けて当たってしまい、統計学がボロ崩れ。なのでとんと足が遠のいていたのです。ところが、昨日、いい方の変則的な台に当たり、11箱。投資が8千円で、47000円も儲かったので、次の台へ。そうしたら、あーた、合計で32箱という快挙。パチンコ生涯(って、まだ2年も経っていないし、帰国したときで時間ができたときだったので、のべで150回も台の前には座っていないことでしょう)で、最高額をゲット。16万の上がりでした♪ちょっと信じがたいことだったので、キツネにつままれてしまいました・・・。これ、酔っ払うと語るんだろうなぁ(笑)。お店の男の子に「本日のイチバンです!」と元気に言われて、何を言っていいのかわからず(笑)。

身分違いの恋や結婚というのが、現代でも多少は残っているのでしょうが、大昔はもっとひどいものでした。すがすがしい結末はなかなか見られず、やっぱり多くの人々は世間に負けてきたのです。山本周五郎の『雨の山吹』という短編は、両親に死なれて、生き延びていくまでにおもらいまでし、生きていくために屋根を求めて置屋に育った芸妓が、小藩の城代家老を継ぐ武士と結ばれるまでを描いたものなのですが、信じながら待つことについて考えさせられたわけです。

「本当に愛しているのならば相手の倖せを心底大事にして、身を引くというのも愛だ」云々ということを、芸妓に懇々と唱える外叔父がおり、真実かもしれないけれども、本当につらい言葉だなぁと、読みながら涙するわけです。ええ、ええ、私はまだまだ毎日泣いており、記録は更新され続けているのですよ。8・9歳くらいからこっち、泣かなかった日は10日くらいしかなく、心の浄化というか、心を整えるためには、私には泣くという行為はたいへんに重要です。小説や映画や大自然で泣くようになってからは、たいへんにラクになったので、惜しまず泣いていますが(笑)。結末を知りたい方はぜひ読んでね♪粋な山本周五郎はぜひぜひ読んでいただきたいです。

こんなことを考えながら、単純な待ち合わせもできない人々について考えてしまったわけです。待ち合わせをするということは、「信じながら待つ」の最も日常化した形なのですが、それも携帯に頼っているのはどうなんでしょうね?と(笑)。いや、確かに行き違いがなくて便利だし、時間の無駄遣いがなくて、ドキドキしてストレスがかからなくていいと思う人たちが多いから、実際に使われているのでしょう。私はこうしたテクノロジーに、たいへんに抵抗するバカモノなので、「信じながら待つ」という醍醐味は、なるべくなら取っておきたい。もちろん逢えないで終わってしまうのはイヤだから、相手に任せることはあるんですが、私は「もしものため」にしか携帯は使わない。私は、以前も書いたのですが、高校1年のときに待ち合わせで3時間待ったすごいやつですから(笑)。電話もない、電信柱の脇で、延々と恋しい男を待ったわけなのよ(笑)。あの3時間には、ふたりの関係が凝縮されており、3時間後には会えたにも関わらず、結局その恋は長続きしませんでした。私があの3時間に考えたことが邪魔になったことは言うまでもありません。「待てたけれども信じ切れなかった」ということなのでしょうね・・・。

別段、私にはなーんの影響もないように見える渡り鳥なのですが、私は渡り鳥の到来をどうも「信じながら待つ」という癖がついており、日本では白鳥の渡りなどをニュースで見ると、予想以上にホッとしていたところがあり、それはどこから来ているのかを考えてみると、父の実家に来ていたツバメから来ていることがわかるわけです。長野の田舎で、開け放しにしていた木造平屋家屋では、祖父と叔父が神主をしており、玄関のすぐ入り口が居間で、その横に台所(下働きや家内のダイニングルームがそこについている)があり、中の間があり、どんつきに奥座敷があり、その横が祖父と祖母の寝間でした。えっと、今になって改築前の家の間取りを考えると、7部屋もあって、トイレとお風呂は外にあったんだ・・・。あ、他に布団部屋のような不思議な狭い間取りの部屋もあった・・・。他にも離れがついており、1階が納屋になっていて、2階には2間の離れがあったのは、昔、養蚕をしていた名残なのでしょう。そこでは、祖父と叔父の考えがあったのかなかったのか、季節が来ると、約束したようにツバメの家族が来るのです。鳥語はわからないから、誰とも約束はしていないのだけれども、ちゃんと来るのよね・・・。しかも、屋内と屋外の両方に巣を作ってあり、誰も気にせず、糞が落ちてもいいようにちゃんと準備をしていたわけです。

ツバメだけではなく、田舎に夏と冬に長期で預けられた恩恵はこんなところにあるんだろうな、と、いまさらながら、遊ぶ場所がない、田舎がない子どもたちを、ちょっと気の毒に思ったりするの・・・。信じながら待つということは、大自然の摂理・営みから学べることなのですが、テクノロジーと便宜を駆使した都会の生活の中では、なかなか難しい。家族いっしょにごはんを食べることすら、確保できないお家も増えているという・・・。私にはちとコレは信じがたく、今でさえ、母にはごはんの時間のために帰宅予定をあらかじめ言っておかないとものすごい怒られる(笑)。作ってくれる人に感謝だよね・・・。母は、そうした私の言葉を信じながら待ってくれており、待たせていることをヨロコビながら応えるというのを日々、まだまだやっているのである。

なので、商売でメールをよこさなかったり、口先だけで信じてほしいような口ぶりで話されると、本当にぞっとするのである。ネットでのおつきあいなんかもそうだな・・・←今のところはないのだけれども・・・。英語教師をやっていても、生徒さんたちの学習の成果を信じながら待っており、それはそれはとても楽しいことなのです。彼女たちが日々がんばっていることは、節穴ではない私には、ジャーナルを見ても、授業中の態度を見ても、歴然としているので、本当にうれしい待ちなのです。

私はイラチですが、こらえ性があることもあり、それを左右するのは、最初のスクリーニングが「自分についてか vs他人についてか」で、自分に関することにはとてもすぐに腹を立てる傾向にあり、自分をやっつけます。距離感により、私以外の人間がそれを阻んでいたりするかどうか?がふたつめのスクリーニング。その人物が「アテにできるかどうか」ということで、無意識のうちに評価してきた人が「信じながら待っている」私に応えてくれないと、どうも腹を立てるのだろうな、と思うのです。

期待はしないと豪語している私なのですが、どうやら、反省したほうがいいらしい(笑)。腹を立てるのは、私が期待しているからで、私がひとりで創造した人物像は、「信じながら待つ」に値しない場合があるから、無意味に怒っているということに気づけないといかん・・・(笑)。まぁ、最近、それほど怒らなくなったんですけれども・・・。あ、ミンチ偽装問題とか、社会問題については怒ってますが、個人的なレベルでは温和なことになっています。

自分が決めて、信じながら待つって醍醐味は、ぜひぜひ日々やってほしいことです。そうして、人間関係は深くなり、織り成される機微が深くなります。あー、ツバメの目を久々に思い出して、ちょっとドキドキ。ネットで写真探そう(笑)。

 

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