共有のヨロコビ

誰かと何かをいっしょに所持するという経験を、小学生のときから何度も繰り返していると思います。が、私は、それを未だにあまりやっていないのかもしれないなぁ、と、今日ふと思ったのだった・・・。それができることによって、何か途轍もないスケールのでっかいヨロコビを得られるのだろうけれども、私にはそれがあまりない・・・。ゼロではないにしろ、きっととても少ない。まず、私には子どもがいないので、それが最大のMissingなのだろうなぁ。でもなぁ、子どもは持ち物じゃーないし・・・、とはいえ、気分的には共有でいいんだろうな。

 

共有:(1)複数の人または団体が一つの物を共同で所有すること。⇔専有 (2)〔法〕 共同所有の一形態。複数の者が同一物の所有権を量的に分有すること。

 

今の家は賃貸なのですが、そもそも、私はアメリカで5軒ほどの家を換えましたが、不動産を持っていても、さしての愛着もなかったような気がします。すべて、西さんと共同名義でしたが、城だとか財産とかいう気持ちはなく、仮の宿という意識から抜け出せないままでした。それは今も同じ。

 

そして、何度も書いているように、私はそもそも年齢の割りに、書籍以外の持ち物が極端に少ないのだろうと思うのです。引越し作業をしていても、ダンボールのほぼ6割が書籍やその類。もちろん、重さは大したことがないにしろ、衣類もいくばくかはあるのですが、あの中で愛着があり、棄てたくないものは、それほどにはない・・・。あとは、ネコたちの道具や消耗品やその他。今回も、アメリカに戻って、こちらに持ち帰ってくるものについては、ネコたちの缶詰やきっと着られるだろう衣類や、台所用品の一部だけなのだろうと思われる。

 

産業カウンセラーの講座は、来年4月にならないと申し込めないことがわかったので(ひとつの会社に属してから3年以上経っていないといけない)、となると、あと11ヶ月は待たないといけません。日本にはあと2・3年は住むことになるとは考えてはいるものの、特にまた荷物を増やす予定はないです。

 

当然、絶対量としての所有物が少ないため、誰かと共有しているものも極端に少ない。これは道理・・・。

 

こうして、私は自分が誰かとモノを共有することで、何か感動やモラルや情熱を増やしてこられなかったのではないか?と、考えたわけです。

 

強いて言うならば、小学校のときに、いっしょに飼った動物がいくつもいます。けれども、所有物ではなかったので、よく逃げられてしまったし、育っていかなかったり、誰かにもらわれる羽目になったりしました。植物も育てましたが、やはり季節が来ると枯れてしまう。

 

「かわりばんこ」という使い方をした、たくさんの遊び道具もあったはずなのですが、私が所有していたものは、とても少ない。カラー竹馬と縄跳びくらいで、ボールも持っていなかったのです。けれども、クラスのボールはありましたし、子どもの頃は、それほど道具を必要とした遊びをしたような記憶もない・・・。弟はグローブとファーストミットを持つ身になりましたが、私は、合気道の胴着と袴を持ったきりで、16歳で原付免許を取るまでは、モノを本当に持たぬ子だったような・・・。その癖は今でも続いており、ID関係以外のもので、「他人のものでも借り物でも間に合う」というもののほうが多く、衣類、特に下着や靴下や靴、以外で、どうしても欲しいものもないし、けっこうどうでもいいと思っている傾向にあります。

 

今も自分のバッグの中を見てみると、質素なもんです。タバコさえ止めればさらにこのバッグは軽くなるんだろうな。メガネとサングラスがかさばるのですが、あとは、化粧品も至ってシンプルだし(普段はしないのだけれども、相手企業によってはすることあり)、ティッシュペーパーすら持たないのね・・・。だって私は鼻がかめない(笑)。

 

大人になると、どんどんさらに共有するものがなくなってくるのでしょう。

 

そういえば、私の家は狭かったので、弟や母と同じ部屋をかなり長いあいだ共有していたのですが、それも高校生くらいからは、一部屋を与えられ、フレックスタイム制だったことに気づく(笑)。私がせっせと学校に通い、アルバイトに行っているあいだに、母はそこでリラックスをするわけです。もちろん、彼女のこまめさから、自分が使ったものは、きちんと片付けておいてくれるので、その部屋はまるっきり私の部屋としか見えなくなるわけで・・・。

 

今は、3部屋にキッチンダイニングなのですが、昔に比べれば本当に広いのかもしれない。当然、アメリカ時代から見れば1/3の広さなのです。私ひとりで、ネコたちと、この3DKより広いところに住んでいたのですから。ということは、アメリカの家は、本当にがらんどうだったんだろうな、ということ。西さんも荷物を持たない人なので、いつも、「あー、荷物が多い」と言っていましたが、書籍と消耗品を抜かしたら、大した量ではなかったはずです。家具も愛着があり、取っておきたいものは今考えられるだけで、4ピースほどしかありません。

 

塵芥(ちりあくた)のようなものであると、卑下しているわけではないのですが、特に所有物を介して誰かと何かを共有したいと、いつからか思わなくなりました。そのせいで、子どもを躾けることに関しても、ネコを躾けることに関しても、生徒さんを教えることに関しても、本人の意志が第一優先で、判断力がない段階にしろ、それは尊重されて然りだと思うようになっています。特に私が記したものや生きた証が、後世に残らずとも、何の未練もなく、○×財団だとか、CEOだとかいう冠は生涯要りません。そういったチャンスがあり、いつかそうせねばならぬような羽目になったらどうするのか?は、今のところ考えていません。受けないだろうからです。ただし、ゼッタイとは言わないし、ありえないとは言わない。この世にそんな保証はないから。

 

けれども、持ち物を粗末にしているわけではなく、気づくとカーディガンなど、30年くらい前のものがあります(笑)。バスタオルも「どうしてよぉ。消耗品でしょーよー」と思うのですが、父が死ぬときに病院で使っていたものは、使わないで取ってあります。時々出してはため息をつくためです。爪きりももう20年くらい使っているし、文房具に関しても同様です。壊れないんだな・・・。モノも買わないし・・・。買い物が好きな母を見てきて、私は買い物が嫌いになったようです。スーパーだって、食べないで生きていけるのであれば、できたら行きたくないくらいだ(笑)。

 

西さんと共有しているものは、結婚指輪もありません。モノに縛られない人間だということは、西さんは知り合った当初から知っており、結婚式も披露宴も撮影も旅行も何もしませんでした。イベントとしてではなく、ありきたりの日々の中で起きたささやかなことを、私たちが最後に思い出せて、胸の中で大切にできればいいな、と、シンボルは避けてきたわけです。

 

どう考えても、私が誰かと共有しているモノは探せない。ブツはないという結論に至りました(笑)。西さんが、「なんで?へぇ、またそういうの書いてるの・・・」と(爆)。事務所にある文具だとか金庫や書類は共有物なのですが、これらもいつか消えるのでしょうし・・・。消耗品として扱っているのだろうか・・・。まぁ、そんなことをつらつら考え、子どもという宝に恵まれた人々の想いに共感が持てるかどうか、ちょっと今晩は試してみます。もうすぐネコたちが来るので、どうなることやら・・・。

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