取るべき責任

私は日ごろ、「べき・べきでない」を語る人々を避けて暮らしているのですが、本日は特別。なぜならば、公人である政治家の責任の取り方が、自殺で終わった事件を受けて、それについて考えながら書いているので、自分だったらどのような責任の取り方をするのか?をじっと考えているところ・・・。午前中、ZARDのヴォーカル女性の転落死を知り、そのまま出かけてしまったのですが、帰ってみると、西さんも母も教えてくれていないニュースがあり、10時過ぎて知ったというオマヌケさ(汗)。西さんと母にしてみれば、このニュースには、私は興味がないとみなしたのかなぁ・・・。いや、他に話がたくさんあったのだ、という解釈にしておこう・・・。

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。

ここで多くの人が見落とすのが、「自分が引き受けて」という部分。なので、流行語にもなった『自己責任』という単語そのものがおかしいのだ。英語で、Self-responsibilityなどという語彙はない。ありえないのだもの。そもそも、Responsibilityという言葉には、その含蓄がすでにあるのだから。Respondという動詞は、「応える」なのだ。本人以外、誰かが応える場合には、そこにちゃんと他の主語が来るので、単一で使うとしたならば、それは自分以外にありえない。言い出し始めたやつは一体誰なんだ?知っている方、教えてください。その当時、日本にいなかったのでわからないのだ・・・。

がゆえに、私は「べき・べきでない」というのは、個人から発せられて当然の言葉で、他人がとやかく言うシロモノではないと断言しています。そうではなく、国や親や教師やその他権威を持っている人が、誰かに命令したり強要することは、国全体・家庭全体・学校全体・地域全体等の真の意味でのモラル向上にもならないし、空虚な絵空事になる可能性が高いからです。

どうしても「べき・べきではない」を語りたい人は、法制度に訴えかけることを提案します。情けないことだとは思うのですが、法律上、責任を取らねばならぬこと・条例等を増やしたほうが、わからない人間には有効です。たとえば、観光地や山などに不法廃棄をするなど、アメリカでは、高い。$700以上なので、今の価値でいうと、85000円弱以上から、の罰金だ。『環境問題の基本』でも書いたのですが、ごみ問題はのちのちの地球全体に関わってくるので、これくらいの条例を市や県や群等が持っていいでしょう。損害が大きければ、社会が成り立たないのであれば、それくらいの強い意志と説得力を以って、法令化してください。

けれども、法律問題と、自己が判断する責任の取り方は、別次元にあること。道徳的必然性なのですよ。それを身につけるかどうかは、社会動物としてのサバイバルの可能性を大きく振り分ける、大切な分岐点です。

道徳:(1)ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。(2)小・中学校において、道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)から新設。(3)〔もっぱら道と徳とを説くことから〕老子の学。

己の考え方や理念がもたらす道徳観が、もしも社会動物として他人に受け容れられないのであれば、しょうがないです。その場合は、ぜひぜひ、隠遁して山にでも住んで、自給自足をしてください。そんな極端なことはできないにしろ、モラルがあまりにも違う場合には、私のように一時期、海外脱出をする手もあります。あるいは、あまりオススメはしませんが、権威者になり、自分のユートピアモラルワールドを展開する手もあり。ヒットラーやムッソリーニなどのように、破滅する可能性も高いですが、一時的であれ、昂揚したいのであれば、いいのかもしれません。

さて、前置きが長くなりましたが、私は、死んでお詫びをするという考えには賛成しません。西さんが、ただいま、子母澤寛の『新撰組始末記』を読んでいるために、石原知事のコメントが、「彼も武士だったんだなぁ」などと言ったことを挙げていました。ところで、石原知事を私が嫌いなのは、前出の前置きの考え方の相違です。博識ではあるのでしょうが、そもそも、責任というのは自己が取るもので、他人が強制するものではないことを、あまりわかっていないようだ。たとえ、わかっていても、横車を出したいようだから。彼は政治家になって、他人を右往左往させることにより国をよくしたいという手段を選んだのでしょうが、私はまったくそれに賛同していません。誰かがしなければ、というのは理解しますが、私は自分がその器ではないことは知っています。多くの人は知らないようです・・・。

もちろん、私も武士道は意味もなく、やたらと、胸が熱くなるほど好きです。けれども、切腹や斬首など、生命の価値に威厳がない場面が多いことも、そりゃぁ、否定できません。負け惜しみとして、『勝てば官軍』などという言葉があり、たくさんの大義を持つ人々が、早逝していったことは大きな損失です。それは冷静に考えて、今だからこそ言えることなのですが・・・。だから、私は山田風太郎にも手を出し、山手樹一郎にも手を出しちゃってるんですけどね・・・。いやー、本当にバタバタと人が死んでゆくので、『真田太平記』の最後は、ボロ泣きでしたが・・・。

ただ、死んでお詫びという、一見究極に見えるかのような責任の取り方は、実は責任は取ってないということ、と、私は考えています。死者に追い討ちを駆けることは本懐ではないのですが、自殺が増えていく傾向の先進国にしか住んだことのない私は、言っておかねばならないと、自分でなぜか考えています。「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い」を、残された者に丸抱えさせることになり、さらに、生きていたらその先もあったはずの喜びも悲しみも奪い取るという行為は、責任の取り方としては、どんな場合にも納得の行くものではないはずです。

こんな考えから、私は死刑制度には賛成するものの、死刑執行そのものには反対しています。死刑囚となり、その心地を味わい、更正に向けて再出発する準備は大切ですが、生きて責任を取り続けてもらうことのほうを、私が遺族だったら選びます。執行は延ばしてもらいたいです。

自分にもそういう試練を課しているので、何に失敗しても死ぬまいと決意しており、躁うつ病持ちですが、それだけは避けるように心がけています。かと言って、その誘惑に抗いきれなかった人々を卑しむようなことはしません。それほどに大きなうねりに、私がゼッタイに逆らえるかどうか、まったくのところ自信はありません。が、ここまでは生き延びてきましたし、取れるだけの責任は取ってきました。

政治的な裏側を、ここでまたマスコミがいろいろ詮索していますが、それを語って何になるのか?と、私はたいへんにしらけた気分でいる、アメリカに発つ前日です。

 

私は日ごろ、「べき・べきでない」を語る人々を避けて暮らしているのですが、本日は特別。なぜならば、公人である政治家の責任の取り方が、自殺で終わった事件を受けて、それについて考えながら書いているので、自分だったらどのような責任の取り方をするのか?をじっと考えているところ・・・。午前中、ZARDのヴォーカル女性の転落死を知り、そのまま出かけてしまったのですが、帰ってみると、西さんも母も教えてくれていないニュースがあり、10時過ぎて知ったというオマヌケさ(汗)。西さんと母にしてみれば、このニュースには、私は興味がないとみなしたのかなぁ・・・。いや、他に話がたくさんあったのだ、という解釈にしておこう・・・。

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。

ここで多くの人が見落とすのが、「自分が引き受けて」という部分。なので、流行語にもなった『自己責任』という単語そのものがおかしいのだ。英語で、Self-responsibilityなどという語彙はない。ありえないのだもの。そもそも、Responsibilityという言葉には、その含蓄がすでにあるのだから。Respondという動詞は、「応える」なのだ。本人以外、誰かが応える場合には、そこにちゃんと他の主語が来るので、単一で使うとしたならば、それは自分以外にありえない。言い出し始めたやつは一体誰なんだ?知っている方、教えてください。その当時、日本にいなかったのでわからないのだ・・・。

がゆえに、私は「べき・べきでない」というのは、個人から発せられて当然の言葉で、他人がとやかく言うシロモノではないと断言しています。そうではなく、国や親や教師やその他権威を持っている人が、誰かに命令したり強要することは、国全体・家庭全体・学校全体・地域全体等の真の意味でのモラル向上にもならないし、空虚な絵空事になる可能性が高いからです。

どうしても「べき・べきではない」を語りたい人は、法制度に訴えかけることを提案します。情けないことだとは思うのですが、法律上、責任を取らねばならぬこと・条例等を増やしたほうが、わからない人間には有効です。たとえば、観光地や山などに不法廃棄をするなど、アメリカでは、高い。$700以上なので、今の価値でいうと、85000円弱以上から、の罰金だ。『環境問題の基本』でも書いたのですが、ごみ問題はのちのちの地球全体に関わってくるので、これくらいの条例を市や県や群等が持っていいでしょう。損害が大きければ、社会が成り立たないのであれば、それくらいの強い意志と説得力を以って、法令化してください。

けれども、法律問題と、自己が判断する責任の取り方は、別次元にあること。道徳的必然性なのですよ。それを身につけるかどうかは、社会動物としてのサバイバルの可能性を大きく振り分ける、大切な分岐点です。

道徳:(1)ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。(2)小・中学校において、道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)から新設。(3)〔もっぱら道と徳とを説くことから〕老子の学。

己の考え方や理念がもたらす道徳観が、もしも社会動物として他人に受け容れられないのであれば、しょうがないです。その場合は、ぜひぜひ、隠遁して山にでも住んで、自給自足をしてください。そんな極端なことはできないにしろ、モラルがあまりにも違う場合には、私のように一時期、海外脱出をする手もあります。あるいは、あまりオススメはしませんが、権威者になり、自分のユートピアモラルワールドを展開する手もあり。ヒットラーやムッソリーニなどのように、破滅する可能性も高いですが、一時的であれ、昂揚したいのであれば、いいのかもしれません。

さて、前置きが長くなりましたが、私は、死んでお詫びをするという考えには賛成しません。西さんが、ただいま、子母澤寛の『新撰組始末記』を読んでいるために、石原知事のコメントが、「彼も武士だったんだなぁ」などと言ったことを挙げていました。ところで、石原知事を私が嫌いなのは、前出の前置きの考え方の相違です。博識ではあるのでしょうが、そもそも、責任というのは自己が取るもので、他人が強制するものではないことを、あまりわかっていないようだ。たとえ、わかっていても、横車を出したいようだから。彼は政治家になって、他人を右往左往させることにより国をよくしたいという手段を選んだのでしょうが、私はまったくそれに賛同していません。誰かがしなければ、というのは理解しますが、私は自分がその器ではないことは知っています。多くの人は知らないようです・・・。

もちろん、私も武士道は意味もなく、やたらと、胸が熱くなるほど好きです。けれども、切腹や斬首など、生命の価値に威厳がない場面が多いことも、そりゃぁ、否定できません。負け惜しみとして、『勝てば官軍』などという言葉があり、たくさんの大義を持つ人々が、早逝していったことは大きな損失です。それは冷静に考えて、今だからこそ言えることなのですが・・・。だから、私は山田風太郎にも手を出し、山手樹一郎にも手を出しちゃってるんですけどね・・・。いやー、本当にバタバタと人が死んでゆくので、『真田太平記』の最後は、ボロ泣きでしたが・・・。

ただ、死んでお詫びという、一見究極に見えるかのような責任の取り方は、実は責任は取ってないということ、と、私は考えています。死者に追い討ちを駆けることは本懐ではないのですが、自殺が増えていく傾向の先進国にしか住んだことのない私は、言っておかねばならないと、自分でなぜか考えています。「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い」を、残された者に丸抱えさせることになり、さらに、生きていたらその先もあったはずの喜びも悲しみも奪い取るという行為は、責任の取り方としては、どんな場合にも納得の行くものではないはずです。

こんな考えから、私は死刑制度には賛成するものの、死刑執行そのものには反対しています。死刑囚となり、その心地を味わい、更正に向けて再出発する準備は大切ですが、生きて責任を取り続けてもらうことのほうを、私が遺族だったら選びます。執行は延ばしてもらいたいです。

自分にもそういう試練を課しているので、何に失敗しても死ぬまいと決意しており、躁うつ病持ちですが、それだけは避けるように心がけています。かと言って、その誘惑に抗いきれなかった人々を卑しむようなことはしません。それほどに大きなうねりに、私がゼッタイに逆らえるかどうか、まったくのところ自信はありません。が、ここまでは生き延びてきましたし、取れるだけの責任は取ってきました。

政治的な裏側を、ここでまたマスコミがいろいろ詮索していますが、それを語って何になるのか?と、私はたいへんにしらけた気分でいる、アメリカに発つ前日です。

 

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