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11/01/2007 にアップした文章です。

 

褒められるのが苦手な人間というのは、やっぱり想像以上に多く居るのではないか?と、私は思っているのですが、どうなんでしょうか?高倉健がかなり昔に、『あなたに褒められたくて』という本を書いたことがありますが、この「あなた」というのは、健さんのお母様のです。マザコン気味傾向がカケラもない男性は、まったく魅力がないです(きっぱり)。私は大昔、これを読んだ記憶はあるのですが、はっきりと思い出せません。いろいろな人との想い出を感謝を込めて書いていたという記憶があり、ゴーストライターがいるのかどうか?と疑問に思ったかもしれません。もう一度、チャンスがあったら読もうと思います。

褒める:(1)高く評価していると、口に出して言う。たたえる。(2)祝う。祝福する。〔(2)が原義〕
評価:(1)物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること。(2)品物の値段を定めること。また、その値段。(3)物の値打ちを認めてほめること。
価値:(1)物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。〔幕末までは「価直(かちよく)」が用いられた〕(2)〔哲〕 善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。(3)〔経〕 商品の価格の背後にあって、それを規定しているもの。その本質・源泉のとらえ方によって客観価値説(労働価値説)と主観価値説(効用価値説)とが対立する。

ここでもやはり「人を見て、感じ考えたことを、口に出し表現する」というそもそもの行動があります。価値のない人間などいないし、褒めるところがないなどということは、ほぼありえない。けれども、どうも、人々は人をあまりじっくり見ていなかったり、見ていても感じるところが少なかったり、それについて考えていなかったり、特に口に出すことでもないとみなして通り過ぎたりします。あるいは、そのコンビネーションで、塩梅が曖昧で、無意味に褒めたり、褒めたほうがいいときに褒めずにいたりするらしい。今日のタイトルは、褒められた場合に照れくさかったり、素通りしてしまったり、どんな意図があるのか考えこんでしまったりすることを指していますが、そんな気持ちになってしまうのはなぜなのか?

私は、家人にまったく褒めてもらったという記憶がなく、いつも怒られてばかりだった記憶ばかり。なので、学校や友だちに褒められても、そのギャップに戸惑い、いつしかそれは褒めていないのだろう、とみなすようになってしまっていました。どうして家人が私を褒めなかったのか?ご機嫌のいいときの父にたまーに褒められたくらいで、あとは本当に怒涛に怒られていました。手のつけられない子どもだったんでしょうね・・・。母の口癖は、「赤ちゃんのときは家事が終わるまで寝ていてくれて、本当にいい子だったのに」です(爆)。

ところがその反対に、運動関係や遊び関係で、まず友だちによく褒められ、先生にもかなり頻繁に褒められ、その違いに本当に戸惑っていました。そこで家人が出してきた得意の言葉が、「外面がいい」というもの。

外面:(1)外部の人と接するときの態度・顔つき⇔内面(うちづら) (2)外に向いた面。がいめん。
まさかのまさかなんですよ。父は確かに仕事ではそれなりに振舞っていたとは思うのですが、私が見ていた父は、会社の人たちを家に呼び飲んだくれていて、外面も何もなかったし、母や叔母・叔父や祖母などは、内外関係なく、振舞う人々だったので、私がモデリングできる状態もそれほどない・・・。「うちの子に限って」のネガティブ版は、昔からずっと変わらず、母は今でも私が英語が話せたり、ヘリが操縦できることを心底信じていません(笑)。

それに慣れきっている私は、褒められても「えええええ!」と思うことばかりで、本気でそれについて考えたこともなければ、鵜呑みもせず、気にしてこなかった節があります。あくまでいつもマイペースだったわけで、躁鬱病の症状を小さい頃から呈していた私は、「そんなのできて当たり前」と、他人様に対して「ふふん・・・」と思うほど身勝手で高邁なところも持ち合わせており、本当に不遜でした。さらに、そもそも利己的な私は、誰かに認められるために何かをしようとせず、誰がどんな評価をしても、ほぼかまわないところがあって(社会動物なのでゼロとは宣言できず・・・)、どちらかと言えば「放っておいてほしい」の芽は渡米前からずっとあったわけです。そして、渡米し、ひとりになり、過干渉しない周囲に対してとてもほっとしたわけです。

日本に戻ってきて、いろいろな人がいろいろなことで褒めてくださいますが、今でもきちんと受け止めているか?と問われると、どうもまっすぐに受け止めていないところがある・・・。このひねり・歪み・ひずみはどこから来ているのだろう?と思ったりするわけです。

難しいのは、大人なので、社交辞令があるところだ(爆)。不思議と「とりあえず褒めておく」という礼儀作法を公的な場所で守る日本人は、「取ってつけたような褒め言葉」を言うのでわかるのですが、それに対して「人間関係を潤滑にするためにとりあえず褒めておく」というにしては、やりすぎだと思えるラインを超えると、怒りやイライラさえ持ってしまい、どうもいけません・・・。

私は、よく人に「褒め上手」だと言われます。留学生などには、アメリカで「今、レジの人にネイルを褒めてたでしょ。びっくり」などと指摘されたり、何かを褒めたおかげのいただきものが多いです(持ち物などでそれほど高価なものではないと、気前よくいただけるわけです)。今も生徒さんはよく泣きますし、授業中に手品をしてもらったり、お国自慢をしてもらったり、と、褒めた揚句にしていただいていることが多い。私を指名してくださる生徒さんは多く、留学をその気にさせてしまった例は、3ヶ月で4個に上ります。本来の英語学校経営の目的は、日本にいながらにして英語を学ぶことなのでしょうが、私は目的をしっかり聞いたあとは、留学をオススメしています。しかも、第一目標の留学がスベったときのオプションまで考えてプランしますので、褒め言葉は生きてきます。

「自分がしてもらいたいことを他人にもする心がけ」という意味で、平凡な褒め言葉は投げかけない。これはいつも私が決めていることです。おためごかしに聴こえたり、受け止めている本人にとっては「飽き飽きする」明白なことなどは、言っても詮無いでしょう。よく観察しなければわからなかったり、私だから気づくようなことを、褒める。しかも、目的は「褒める行為」ではなく、「私が感じ、考え、本人にどうしても伝えたいこと」なので、わざとらしさは激減しているはずです。

容姿についてや家柄についてなどなど、褒められてもうれしくないことはきっと多いに違いない。まぁ、人によりますが・・・。私は自分がユニークだということに気づいてもらえた結果としての褒め言葉ならば、本当に照れてしまい、時として泣いてしまうかもしれません(が、西さん以外の人の前で真剣に泣いたことはないですね・・・。映画以外・・・)。理解してもらえた、という歓びは、ナニモノにも換えがたいものです。

が、ネット上で知り合った人々については、なかなか適切な褒め言葉が見出せないこともあります。私が褒めているように見える校長センセの美徳は、海のように深く、空のように果てしないので、実際は、「表面的なおためごかし」に聞こえてしまうことも多いのでしょう。ごめんなさいねー、校長センセ。リアルでバンバンお会いできればいいのですが、物理的に距離が遠すぎますな。が、私に関しては褒めるということを意識していらっしゃらないようですので、いつも感謝しています。

英語を教えている限りは、1日数回以上は他人を褒めることができると思うので、とりあえずは「安全圏確保」。人に対して無関心でいないためには、本当にいい環境です。