威圧感

12/28/2007 にアップした文章です。


これについて、私は長年苦しんできたのですが、悩みでもなく、悩むべきなことではないと決めてから、長い時間が過ぎています。ただ、変わる必要がないと思っていながらも、支障が出る場面はたくさんある(笑)。ということは、今日のエッセイはぼやきで終わるのか?うーん・・・、それじゃー芸がない。どのような人間が、他人に威圧感を与えるのか?をじっくり考えてみて、受ける人々の心持も考えてみようかと思っています。いや、どのような、って私も充分威圧感を与えている側、なんだけれども(笑)。

威圧:威勢や権力などで相手を恐れさせること。

威勢:(1)活気にあふれ、勢いのよいこと。元気があって勇ましいこと。(2)人を威圧するような勢い。

権力:他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力。

恐れる:(1)危害が及ぶことを心配してびくびくする。危害を及ぼすような人や物と接することを避けたがる。こわがる。《恐・怖・懼》(2)良くないことが起きることを予想し、そうならなければよいが、と思う。危惧(きぐ)する。《恐・懼》(3)神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。《恐・畏》(4)閉口する。恐れ入る。《恐》

すべての動物には、Neophobiaがあります。新しいもの・奇異なものに対する警戒心で、それは本能に根ざしたものです。危険なものを『危険』と認識したまま、プログラミングの変更を行わなければ、それは他のPhobia(恐怖症)となって根付いていきます。すべての危険物や恐怖症は、Neophobiaから出発するのですが、これは、校長センセが日ごろから話されている「好奇心」に知恵がつくかどうかが分かれ目になり、とにかく何でも!「触ってみる」「食べてみる」「やってみる」などなどというのが、当てはまらないのは、それが毒物を持っている植物や牙を剥く動物などであれば、そこで生命は終わってしまうし、ふぐなどであれば死んでしまうし、基本を踏まえていないロッククライミングなどでもやはり死んでしまうか、大怪我をすることになるわけです。

Phobiaが何の理由にすら根ざしていないものは、ほぼありません。ただし、あまりに極端な恐怖症は、当人にとっては「当然でありすぎる恐怖」なのですが、実際にはその人の経験値や人生の来こし方を表すもので、私のような人間にとっては、「おもしろみ」があるものです。

私は嫌いな人がいません。嫌いなことはたくさんあります。その嫌いなことをある個人Aさんが、行動全体の5割を超えてしまったら、ちょっともうおつきあいができないので、おつきあいを続けなくはなりますが、特に「Aさんは憎むべき存在」というのでもありません。なぜならば、私が嫌いだったり、怖いと思う物事は、なべての人に共通なものではなく、私個人のひとりよがりなことも多いからです。

たとえば私は、男性でもふたりきりになる場合は、背の高い人よりは、背の低い人のほうが好きです。西さんも背が低いことを人生の途中までコンプレックスと感じてきたようですが、私にはそれが美だった。うまい具合にできております(笑)。背の高い男性の方々には申し訳ないのですが、私は自分より背が低くとも、男性は充分破壊力があると信じ込んでおり、その度合いは、Unreasonable(理路整然としていたり、充分な理由が足りないもの)な域に属するのではないかと思うのです。父も私を殴って育てましたし、弟は今でも怒りの頂点に達すると暴力を振るうかもしれない185cmです(笑)。それほどのPhobiaではないんですよっ!ですから、生徒さんの中でも、身長の高い人とふたりっきりでプライベートレッスンをしても怖いわけではないです。ただ、うんと仲良くできる、距離感が近くなれる人は、どうも背がそれほど高い人にはならない・・・。

男性は、背など高くなくとも魅力的な人は魅力的ですし、DNAが大きく左右することにコンプレックスを持つ必要もなく、逆にそれを人間関係において優位に使う必要もないわけで・・・。なので、私は女の子が「背の高い人が好きっ!」と言うのを聞いて、いつも「なぜなんだろう?」と思っていたクチです。が、背が高い人はぜひぜひスポーツをやってくださいね♪と思います。

女性の背の高い人は大好きなんだよなぁ・・・。小さい人も好きですけどねぇ・・・。

ここで威圧感という言葉が入るわけです。本能的に威圧感の強い人は、どうも人々に疎まれる。私はアジア人女性で40歳過ぎているわりには、背が高い。ヒールなどを履くと175cmは超えてしまうし、肩パッドが必要ないほどにハンガーな肩なので、さらに威圧感がある。体格も20年前とは違い、詐欺のように体重が増えました(笑)。声が小さいわけでもないし、顔のひとつひとつの作りも自己主張している部位のほうがずっと多い。主張していないのは、えらやあごくらいで、おまけにほくろがたくさんある・・・。

私は明るくてパワフルでポジティブだと、他人に誤解されやすい。それはさらにもうひとつの原因である、躁鬱病がなせる業で、私の「穏やかな普通モード」ですら、健常者にとっては「鬱陶しい」わけです。私が本当にハイパーなときには、誰も私とは話したくなどないと思う・・・。いや、プロでない人は話してはいけないとすら思う・・・。私がパチパチ音を立てて、タイプをしているときには、図書館ではいろいろな人が振り向きました。オフィス勤めができないのもそんな理由です。筆圧が高く、私は鉛筆を使うときにも「カリカリ」という音を余分に立てるんですね。だから2Bにしているんですが、それでも速さが落ち着いているわけではないですから、音はしてしまう・・・。万年筆は躁状態が長く続いたときに使って、ペン先を何本かダメにしました。ボールペンは弾力があるにしろ、ペンだこがものすごいことになりました。

私が隣で本を読んでいるのを、たとえページをめくる音がしなくとも、きっとそばに居る人にとっては、気になる鬱陶しい存在だとみなす人は多いのでしょう。だから、私は他人しかいない電車の中や、タバコ休憩や、部屋でしか読みません。図書館は「本を借りるところ」であり、留まって読む場所ではないわけです。

そんなわけで、私はこの威圧感と長年闘ってきているわけですが、やはり日本に戻ってきて1年2ヶ月のあいだ、こんなに歳を食っても、まだ威圧感と戦い直さねばならぬと思ってうんざりしており、けっこう疲れています。トーンダウンするのはなかなか難しい。気づくと、新しく引き受けた仕事も、アテにされるくらいの時間数を割り当てられており、コマ数であれば、そのときだけなので、こうした仕事しかできないんだろうな、という運命に気づく・・・。通訳や翻訳も短い期間でなければ、応募する気にはなれないですもんね・・・。

こうした私によくも長年我慢してくれているな、と絶えず感謝し、母や西さんには本当に頭があがりません。でもねぇ、好きでこんな遺伝子をもらって生まれてきたわけではないですもんねぇ。でも、さらに考えてみると、私はまだ健常者に混ざって暮らせるのだからラッキーすぎるのかもしれない。入退院を繰り返したり、経済的に立ち行かなくなっている人々はたくさんいるわけです。そのハザマで、ラッキーなのか、アンラッキーなのか、いつも思いあぐねるわけです。

そして威圧感があるなし論議とは、私がおばあちゃんになっても、おばあちゃん社会でも巻き起こる話題なのだろう、と、先々に関してもうんざりするわけです。

あー、新しい年が来る年末に、こんなショボイ話はしないようがよかっただろうか?いやー、元気だからしちゃうんでしょうねぇ・・・(汗)。


12/28/2007 にアップした文章です。


これについて、私は長年苦しんできたのですが、悩みでもなく、悩むべきなことではないと決めてから、長い時間が過ぎています。ただ、変わる必要がないと思っていながらも、支障が出る場面はたくさんある(笑)。ということは、今日のエッセイはぼやきで終わるのか?うーん・・・、それじゃー芸がない。どのような人間が、他人に威圧感を与えるのか?をじっくり考えてみて、受ける人々の心持も考えてみようかと思っています。いや、どのような、って私も充分威圧感を与えている側、なんだけれども(笑)。

威圧:威勢や権力などで相手を恐れさせること。

威勢:(1)活気にあふれ、勢いのよいこと。元気があって勇ましいこと。(2)人を威圧するような勢い。

権力:他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力。

恐れる:(1)危害が及ぶことを心配してびくびくする。危害を及ぼすような人や物と接することを避けたがる。こわがる。《恐・怖・懼》(2)良くないことが起きることを予想し、そうならなければよいが、と思う。危惧(きぐ)する。《恐・懼》(3)神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。《恐・畏》(4)閉口する。恐れ入る。《恐》

すべての動物には、Neophobiaがあります。新しいもの・奇異なものに対する警戒心で、それは本能に根ざしたものです。危険なものを『危険』と認識したまま、プログラミングの変更を行わなければ、それは他のPhobia(恐怖症)となって根付いていきます。すべての危険物や恐怖症は、Neophobiaから出発するのですが、これは、校長センセが日ごろから話されている「好奇心」に知恵がつくかどうかが分かれ目になり、とにかく何でも!「触ってみる」「食べてみる」「やってみる」などなどというのが、当てはまらないのは、それが毒物を持っている植物や牙を剥く動物などであれば、そこで生命は終わってしまうし、ふぐなどであれば死んでしまうし、基本を踏まえていないロッククライミングなどでもやはり死んでしまうか、大怪我をすることになるわけです。

Phobiaが何の理由にすら根ざしていないものは、ほぼありません。ただし、あまりに極端な恐怖症は、当人にとっては「当然でありすぎる恐怖」なのですが、実際にはその人の経験値や人生の来こし方を表すもので、私のような人間にとっては、「おもしろみ」があるものです。

私は嫌いな人がいません。嫌いなことはたくさんあります。その嫌いなことをある個人Aさんが、行動全体の5割を超えてしまったら、ちょっともうおつきあいができないので、おつきあいを続けなくはなりますが、特に「Aさんは憎むべき存在」というのでもありません。なぜならば、私が嫌いだったり、怖いと思う物事は、なべての人に共通なものではなく、私個人のひとりよがりなことも多いからです。

たとえば私は、男性でもふたりきりになる場合は、背の高い人よりは、背の低い人のほうが好きです。西さんも背が低いことを人生の途中までコンプレックスと感じてきたようですが、私にはそれが美だった。うまい具合にできております(笑)。背の高い男性の方々には申し訳ないのですが、私は自分より背が低くとも、男性は充分破壊力があると信じ込んでおり、その度合いは、Unreasonable(理路整然としていたり、充分な理由が足りないもの)な域に属するのではないかと思うのです。父も私を殴って育てましたし、弟は今でも怒りの頂点に達すると暴力を振るうかもしれない185cmです(笑)。それほどのPhobiaではないんですよっ!ですから、生徒さんの中でも、身長の高い人とふたりっきりでプライベートレッスンをしても怖いわけではないです。ただ、うんと仲良くできる、距離感が近くなれる人は、どうも背がそれほど高い人にはならない・・・。

男性は、背など高くなくとも魅力的な人は魅力的ですし、DNAが大きく左右することにコンプレックスを持つ必要もなく、逆にそれを人間関係において優位に使う必要もないわけで・・・。なので、私は女の子が「背の高い人が好きっ!」と言うのを聞いて、いつも「なぜなんだろう?」と思っていたクチです。が、背が高い人はぜひぜひスポーツをやってくださいね♪と思います。

女性の背の高い人は大好きなんだよなぁ・・・。小さい人も好きですけどねぇ・・・。

ここで威圧感という言葉が入るわけです。本能的に威圧感の強い人は、どうも人々に疎まれる。私はアジア人女性で40歳過ぎているわりには、背が高い。ヒールなどを履くと175cmは超えてしまうし、肩パッドが必要ないほどにハンガーな肩なので、さらに威圧感がある。体格も20年前とは違い、詐欺のように体重が増えました(笑)。声が小さいわけでもないし、顔のひとつひとつの作りも自己主張している部位のほうがずっと多い。主張していないのは、えらやあごくらいで、おまけにほくろがたくさんある・・・。

私は明るくてパワフルでポジティブだと、他人に誤解されやすい。それはさらにもうひとつの原因である、躁鬱病がなせる業で、私の「穏やかな普通モード」ですら、健常者にとっては「鬱陶しい」わけです。私が本当にハイパーなときには、誰も私とは話したくなどないと思う・・・。いや、プロでない人は話してはいけないとすら思う・・・。私がパチパチ音を立てて、タイプをしているときには、図書館ではいろいろな人が振り向きました。オフィス勤めができないのもそんな理由です。筆圧が高く、私は鉛筆を使うときにも「カリカリ」という音を余分に立てるんですね。だから2Bにしているんですが、それでも速さが落ち着いているわけではないですから、音はしてしまう・・・。万年筆は躁状態が長く続いたときに使って、ペン先を何本かダメにしました。ボールペンは弾力があるにしろ、ペンだこがものすごいことになりました。

私が隣で本を読んでいるのを、たとえページをめくる音がしなくとも、きっとそばに居る人にとっては、気になる鬱陶しい存在だとみなす人は多いのでしょう。だから、私は他人しかいない電車の中や、タバコ休憩や、部屋でしか読みません。図書館は「本を借りるところ」であり、留まって読む場所ではないわけです。

そんなわけで、私はこの威圧感と長年闘ってきているわけですが、やはり日本に戻ってきて1年2ヶ月のあいだ、こんなに歳を食っても、まだ威圧感と戦い直さねばならぬと思ってうんざりしており、けっこう疲れています。トーンダウンするのはなかなか難しい。気づくと、新しく引き受けた仕事も、アテにされるくらいの時間数を割り当てられており、コマ数であれば、そのときだけなので、こうした仕事しかできないんだろうな、という運命に気づく・・・。通訳や翻訳も短い期間でなければ、応募する気にはなれないですもんね・・・。

こうした私によくも長年我慢してくれているな、と絶えず感謝し、母や西さんには本当に頭があがりません。でもねぇ、好きでこんな遺伝子をもらって生まれてきたわけではないですもんねぇ。でも、さらに考えてみると、私はまだ健常者に混ざって暮らせるのだからラッキーすぎるのかもしれない。入退院を繰り返したり、経済的に立ち行かなくなっている人々はたくさんいるわけです。そのハザマで、ラッキーなのか、アンラッキーなのか、いつも思いあぐねるわけです。

そして威圧感があるなし論議とは、私がおばあちゃんになっても、おばあちゃん社会でも巻き起こる話題なのだろう、と、先々に関してもうんざりするわけです。

あー、新しい年が来る年末に、こんなショボイ話はしないようがよかっただろうか?いやー、元気だからしちゃうんでしょうねぇ・・・(汗)。


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