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差の美学

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06/28/2007 にアップした文章です。

 

私は無知な偏見や先入観による差別を強く憎んでいますが、大雑把に見える差別と差の美学はまったく次元の違う別物だと考えています。人々や物事は違うからこそおもしろい。生物学的見地においても、多様性があるからこそサバイバルが可能なのだ、という基本があることを忘れてはならず、すべての差別を嫌悪しているわけではありません。その中でも、この差というのは、単純に引き算なのか?いや・・・、そうじゃないだろう、と今日は考えてみます。

 

差:(1)性質・能力・程度などの違い。ひらき。へだたり。(2)〔数〕 ある数から他の数を引いた値。さしひき。

差別:(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。

区別:あるものと他のものとの違いを認めて、それにより両者をはっきり分けること。

 

美学:〔aesthetics〕美の本質や諸形態を、自然・芸術などの美的現象を対象として経験的あるいは形而上学的に研究する学問。現在では芸術学ないし芸術哲学が主であるが、もとは感性的認識を論ずる哲学の一分野であった。〔明治期には「審美学」ともいった〕

 

ほらね、と言いたくなるのは、この美学そのものが統計学なんじゃん(笑)。心理学は、そもそも、哲学から発達した分野で、それに医学や社会学や人類学などを取り入れてきており、雑多なところからいろいろを取り入れた統一化が不可能な学問なのです。社会科学全般にその要素は濃いのですが、困難さに順位をつけたら、美学-芸術学や芸術哲学などは、最たるモノなんじゃないのか?

 

と、まだここで数学-差がひっかかってくることを言いたかったのね(笑)。

 

自然界は差で出来上がっています。この仕組みを取り入れていない自然はゼロです。たとえば、虹。あの色彩のスペクトラムは、角度の差によって生まれます。光が雨の分子のどこに当たるかにより…。あ、ここを読んでもらったほうが早い(笑)。

http://www.osaka-jma.go.jp/matue/column/phenomena/rainbow.html

 

私たちの人体にも差がたくさんたくさん詰まっていることは、これまで何度も書いてきました。体温もサーモスタットという差を利用したものですし、ホルモン分泌も脳内ケミカルも、差がなければ機能しません。なので、単純な引き算をどれだけ微細に巧みに利用しているか?というのに、超感動していただければ、コレを生活にも見出せて、妙を感じていただけるというわけです。

 

そのために、義務教育があり、そのために高等教育に進んだはずでしたのに、どうも世間はそのように見えないのがちょっと残念。簡単すぎる解釈をした多数決や、軸をお金や人気などに極端に寄らせて、他の軸を無視するようなものばかりが目立つ・・・。うーん、だからかなりたくさんの人々が、差の美学を解していないと思えるわけです。この根本の差についてわかっていなければ、差別は起こりえるし、論理性も身につかない。だから、子どもの頃に義務教育の中で、数字のセンスをつけるのは大切なのよね・・・。

 

確かに、物事をカテゴリーに分けるのは、この混沌とした世の中を整理するのに便利です。頭の中が混乱していることで、あらゆることが台無しになってしまうので、きっちり区別・差別をしたほうがいいことはあります。ただ、しても意味がないところでしているかどうか?をいつも訓練している気持ちになることが大切。それが、小学校、もしかすると赤ちゃんのときからやってきていることで(なぜなら、身体には差を使った機能だらけだから)、そのデータの蓄積は大切なわけです。

 

そのデータこそが、先入観や偏見に繋がるかもしれないので、チェック機能をさらにつけておかないと、果ては年金問題や牛肉ミンチ問題のような、あとから取り返しをつけるのが複雑怪奇なことにまで発展するわけなのよ・・・。この差は、なぜか和という足し算に繋がっており、モノごとが存在していたら、帳消しにしてゼロで積(掛け算)するわけにはいかないのですよ。

 

おばちゃんたちの悪口を言うのはよくないのですが、統計学的には、「数学なんて買い物に使えればいいわよねぇ」などと平気で公言して憚らない方々がいますが、そうじゃないんだよな。日々生活していて、だんなにしてやられたり、子どもが言うことを聞いてくれなかったことなどを、なぜか足し算しているはず。でも、いいことをしても、なかなか引き算してくれないのだから、ちょっと公平じゃないのだ。ここには論理が足りない。数学のような規則正しさがないので、フェアじゃないのです。自分の身体は、脳を先頭に差を使いまくって暮らしているはずなのに、心でどうしても使わないことがある。これを冷静に見てしまえる人からしたら、かなり理不尽なことなのです。

 

政治問題などもそうで、数学的センスはかなり必要です。ちょっと賢いと数字マジックを使って、軸をXからYやZに替える人がいますが、長年訓練しない人にはわからない・・・。コンピュータ世代になり、エクセルもものすごく便利ですが(ロータス123を使っていた頃に比べるとやっぱりすごいよ・・・)、入力そのものが間違っていると、とんでもないことになる・・・。そのために、小学校1年以前から、数字に囲まれて暮らしており、「人間は生涯、学習して成長していける存在である。積み重ねの存在である」ということを無視して、大人の振る舞いを横暴にしていてはいかんのだ。

 

いや、誰が悪いだとかいう犯人探しをしたがる人がよくいるんですが、牛肉ミンチの話にしても、誰がイチバン責任が重い!と語るのは簡単です。それじゃ、ただの割り振りの割り算で、100あるものをいくつかに分けただけになります。数学センスが大切なんだよなぁ、ここでも。もしかすると、すでにその登場人物が欠けているかもしれず、大きく考えたときにも、省庁や国まで巻き込むのはいいにしろ、消費者を被害者設定にして、その責任について考えていないかもしれず・・・。そうなると、扱う数字や軸を増やさなければならなくなります。部分だけを取って物事を語る人は多いですが、そうじゃないかどうかを、考えることができたら、世の中は広くなります。広くなくていいよ、と開き直られたらそれでおしまいなのですが・・・(汗)。

 

子どもたちが、公文式やら宿題ドリルなどをやっている風景を、図書館やカルチャーセンターやそこらで最近見かけるのです。塾もオリジナルのバッグなどをつけて、子どもたちを通わせているのですが、そこまでスコープに入れて教えているのか?と、つい最近も考えていました。確かにドリル式の反復練習は必要だし、有効です。ただ、その先があることを、その先の楽しみがいかにでっかいのか、ということを、併せて披露することができたら、差の美学ももっと浸透して、無意味で理不尽な差別もなくなるし、社会問題も減ってくるのに、と、考えていました。

 

あ、今日のエッセイは、非常にわかりずらい(自嘲)。校長センセが、コメント欄で書いてくださった、「恥ずかしい=決まり悪い」ということに繋がり、コレを書き始めたのですが、まったく序章で終わってしまったのだ。またコレについては、今日の基本を踏まえて書くことにします←かなり焦っている(笑)。