心の歪み

4/30/2008 にアップした文章です。

 

いじめというのはどうして起きるのか、すでにいろいろな人が書いているに違いない。私にとっては、かなり距離感のあることなので、これまで真剣に書いたことがなかったのですが(例に出したことはあるけれども)、いろいろ検索してみると、「いじめには原因がない」と明言しちゃっている人たちがいるらしい。けっこうあんぐりだ・・・。ひとつだけが原因ではないにしろ、原因がゼロなことは、確率的にかなり少なく、社会現象にはならんだろう・・・。そして、私はいじめについて、つい1ヶ月ほど前までの体験者から話を聞くことができたのでした。あまりにも幼すぎる感性が多数決で掛かってきて、それにどうしようも対策が立てられないというのは、本当に忍びない。

このサイトはけっこうまじめに書いてあると思います。http://jtrue.blog110.fc2.com/ ただし、私は多様性容認人間なので、いや、むしろ多様性なしでは、私は生きてはいけないので、この原因フローチャートなどのかなり初歩地点から反論があるんですが(笑)。態度はたいへんに立派です。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81 不思議とWiki には「原因」という言葉が使われていません。あまりに決定的にするのがいやだったのか?

 

検索してみておもしろかったのは、「いじめられる側にも(多少は)原因がある」というのに、反論する人も多かったこと。「いじめる側が100%悪い」と言い切る人たちもいて、歪みという言葉がぴったりだなぁと思ったのです。この対立を子どもたちに見せているから、真似っこされるんでしょうが・・・と思うわけなのよ。だからゆえに、最初のまじめに取り組んでいるサイトで、原因の背景は「大人世代の腐敗」と大きく書かれてしまうのだけれども・・・(汗)。かといって、ユートピアなどあるわけもなく、あったらむしろ進歩がなくて怖く、何が理想形だというのも実際は怪しいわけなので、極端な形でマイナスがあることだけが避けられればいいじゃないか、というのが、私のスタンスでもあるのです。マイルドなマイナスを悪とする風潮は、余計に悪を増やす法則性は、自然の摂理の中でも証明されていることですしね・・・。それが社会学的に応用されていないのは、やはり「多くの人々が関わりすぎていて、なかなか実現しにくい」という状況になってしまっています。鉄のような強い意志を持っていたとしても、愛する人のためにならば、ヒトは自分の意志を曲げることもありますからねぇ・・・。愛するという錯覚かもしれないことを疑いもせずに。

 

実は今日は二日酔いぎみなので、こんなすごいお題を取上げてはいけないと思いつつ、昨日聞いた話が新鮮なうちに書いておきたいと、心から強く願っているわけです。シャワー浴びてきます←この程度で晴れるほどのアルコール残量感(笑)。

 

そこで、世界観が重要になってきます。これらのすべてを統合的にしたものが世界観で、たくさんの物事に対する価値観の総合体です。子どもたちは、育つ過程でこの価値観を貯めていくための体験をしている最中で、世界観をしっかり造りだす体験を重ねている最中で、彼らがいじめという過渡期があることは、それほど驚くべきことでもありません。が、不可逆性の強い痛みや傷、ましてや死などにまで到達するようなことは、確かに、大昔は少なかったし、流行するようなものではなかったのでしょう。

 

私は、子どもの頃から変わった子どもで、なかなかみんなと同じ行動ができなかったので、よく「ハブられ」ましたよ。この言葉、最近覚えたので、使いたかった(爆)。村八分のようなことらしい。「はぶる」という日本語は、「葬る」と書くので、相当に激しい言葉だよなぁ・・・。http://zokugo-dict.com/26ha/haburu.htm でもまったく堪えていなかったのは、私は基本的に「ひとりでいることが大好き」だったということ(笑)。身も蓋もないわけです。無視されるほどひどいことはなかったのですが、学年で4人くらい口を利いてくれない女の子はいました。たくさんの人を巻き込んで激化しなかったのは、おそらく、政治的に動くのが面倒くさかったからなのでしょう(笑)。多数決をするにも、やはり感情だけではなんともいかないわけなのね・・・。しかも、ドッヂボールや徒競走やマラソンやポートボールで、私は必要メンバーだったのだ(笑)。劇的にはぶっても、多くの人に利益はないのよね・・・。しかも、私本人は、はぶられているという自覚が薄かった(笑)。ひとりでチャリに乗って図書館に行くなんて、私の日常だったし、カエルを見たら蹲(うずくま)って他人を関知しないで観察するわけで、足手まといでよく先に行かれてしまっていたし・・・。みんなが拾ってはいけないと言われていた、猫も犬もチャボも拾っては、隠れ家で育てており、規範などなかったし・・・。「へぇ、やりたくないの。わかった!」と、自分ワールドの中心に他人を嵌めようとする志もなかったので、他人が他人ワールドに私を嵌めようとすることもないだろう、と、高を括っていたわけです。だから別行動になるだけだと(笑)。

 

そして、渡米してしまって、自由すぎてうれしくて狂喜していたわけですから、未だに他人と違う行動をとる確率はとても高く、こんな歳になっても化粧はしないだとか、日焼け対策をしていないだとか、できたらスーツではなくヨレヨレのカジュアルを着て町に出たいだとか、いろいろ不便はあります。が、場を飲み込むことはできるので、そこをなるべく避けて生きているわけで・・・。

 

多様性が悪いというのは、どうも違うと思われ、秩序やルールなどは、人間が後々便宜上作ったものが多く、核にある最低ルールというのは、幼稚園のお砂場で学んだことくらいで、それができないからいけないわけでしょう。確かにメディアによる刷り込みの機会は増えました。これだけ技術革新をして、安価でたくさんの情報が得られることは、不幸をさらに招く機会も増えるということです。情熱的に図書館に行き、数時間掛けて調べなければわからなかったことが、ネットで簡単にわかってしまうというのは、かなり肩透かしです。「なんでもあり」というのは、核があってこその延長で、基礎が身についていない場合には、その先はないのだということがわからないのは、愚かです。http://blog-imgs-13.fc2.com/j/t/r/jtrue/iii1.jpg このチャートを肯定しまくってしまうと、お笑い芸人さんたちは明日から食うのに困るでしょうよ・・・。

 

世界観の中で重要なのは、これです>http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/deai/013kizoku.html 何かがあると、原因がどこにあるか?ということを「ヒト」を中心にして、「出来事・モノ」が原因だという可能性を薄く見積もってしまうという傾向。待ち合わせ時間に遅れると、渋滞や事故や子どもの急病などの事故性だということはそっちのけで、その人の根っからの属性だと思うほうが簡単だからなわけです。面倒じゃないんですね。だから死刑賛成論者もまだまだ多く、犯罪はみんながこうした社会を形成して維持しているからだという反省は起きない。私は反省していますねぇ・・・。たまたま私がラッキーなだけであり、あんなに貧乏だったら、私だってバイトをして学費を稼ぐよりは、万引きから始まって、窃盗や強盗をしていたかもしれず・・・。モデルのバイトを続けて、一見ラクな商売に流されて売春をしていたかもしれず・・・(売春は体力的にもきついし、神経も使うし、実際はラクじゃないんですけどね・・・)。とやっぱりラッキーをありがたいと感謝するわけです。

 

確かに子どもは模倣学習をしているわけで、大人を真似しているというのは否定できません。だからこそ、生涯学習は必要なのだ、私が先陣を切って生涯学生でいてやる!と思っているのですが、まだまだお足が追いつきません(笑)。なので、教える仕事をしつつ、謙虚で反省する気持ちは忘れないようにしています。自分には一点の曇りもなく、歪みがないと思い込むことも、相当に危険です。権威という名の下で安堵して暮している人々は、相当数いますしね。その安心している自信過剰な人々が、子どもたちをいじめから守ってあげられるはずなどないと思うのです。極端な形でのいじめではなく、マイルドな過渡期としての儀式程度で済ませられる「すべての人間がすべての人間に好かれるわけではない」というのを、誰かまともに教えてあげてくれぇと思うのです。私は、昨日、そんなことをいろいろ考えつつ、ワインを飲みながら、話をしていたのです。そして、自分の歩いてきた道のりは、本当にラッキーだったと想い、やはり自分にできることをしていこうと、想いをまた新たにしたわけです。

 

さて、私の心の歪みは何だろう?規範がゆるいことなのだろうか?(爆)

 

 

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