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思ったよりいいかも

01/02/2008 にアップした文章です。

今だから言えることなのですが、毎日の日々をこなしているだけではなく、それなりに思い通り・計画通りに行っているという実感を得られるのは、やはり毎日にチャンスがいくつも転がっているのだなぁと、久々の発熱に喘いだあとに思うのです。医者がどこも閉まっていたせいで、市販薬しかなかったのですが、母が買ってきた1800円で18カプセルのもの、今回ものすごく効きました。それも「思ったよりもいいかも」で、それには根拠がたくさんあるにせよ、期待値が低かったがために、余計にヨロコビもでかいのだろうし、立てないくらいになっていたので、もうすでにピークだったからなんでしょうが(笑)。思ったよりいいかも、と思えることが1日何度くらいあるのか、ちと考えてみる・・・。

私は楽観的な人間のはずなのに、自分でやること以外に関しては、何も期待しないよう、自分を躾けています。世間に対してはそれほど楽観しておらず、他人に対しては期待せず、に徹しているところが、私がチームワークやオフィスワークに向かない由縁です。うーん、こう表現すると語弊がありすぎますが、信頼していないから、ということでもなく、人としてある段階までについては、最初に会ったときにスクリーニングをしており、それにクリアしていれば、そこそこは信頼しています。が、人というのは状況やメンツやプライベートなことで左右されて然りなので、いつもそのたびに、内容(Context)と登場人物(Characters)と起きている時期(Timing)とそれらが位置している器にもなる環境(Environment)を、チェックリストで、もちろん行き届かないにしろ、チェックを心がけることは忘れていません。やはり被害者になったことがある人間としては、面倒でも、「もうあんなことは繰り返したくない」という大いなる決意のようなものがあるんでしょうねぇ。もちろん、どんな問題にしろ、いくらでも「うまく根本解決してやりぬく道」というのがあることは信じていますが、人がたくさん関与することに積極的に関係していくようなエネルギーはないのだということがわかっており、自分が求められている範囲が明確であれば、そこまでであれば、という心持になるんですが、キリのないことにはどうしても参加できない勇気のなさがあります。

逆に言うと、ダメであろうと思ったことにやはり心が萎えるために参加することはできない、ということですか。学びの場としてナニモノも得られず、徒労になることをわざわざやろうとする勇気は、誰かの生命が掛かっているなどがなければ、とてもできそうにないです。けれども、私は怠け心があるわけではなく、働かせてもらえたり、招いてもらえたりすればどこにでも出向きますしね。学ぶ場と必要とされている技術が提供できる場があれば、条件が整っていさえすれば拒否はほぼありません。

私がOLにならないと決めたのは相当に早く、「将来何になりたいか」というのが夢ではなくなったステージ、だいたい中学生くらいのときだったと思います。小学校でも中学校に入っても、私には団体による達成感というのが、どうもうまく得られなかったことにあります。中学のときには、合唱部だったのですが、部活動なのに、合唱部だけは、合唱団と自称しており、全国大会に出るいい成績の中学校だったのですが、そこには中学生が充分考えられるくらいの政治が渦巻いており、パワーゲームの縮図を見るのはそこから始まったとも言えます。そこでは、ピアノやその他の楽器を今までに習ったことがある人のほうが、やはりチャンスは大いに増えたし、先生に気に入られたり、先輩に気に入られたりした人のほうがずっとコンクールに出られるチャンスがたくさんありました。なんだか暗い気分になったことが多かった。クラシックコンサートは嫌いだったはずで、それでも入賞した賞品として案内されるコンサートに行かされて、眠らないように努力した記憶があります。

「合わせる」というのがいかにたいへんで、団体の中で行動することをミニマムにしようと心がけてから、私は「思ったよりいいかも」と毎日感じることができるようになったことに、ものすごく驚きました。「自分が」考える・予測する期待値に左右されればいいことになったからです。第三者の感情的な物事が左右する回り道を迂回することができるからです。

たとえば、多摩川までの冒険決行にしろ、子どもたちの人数が増えれば増えるほど、決行までの道のりは遠くなり、ハードルは多くなる。子どもたちの年齢やその能力、親御さんたちの意見、行く手段に関するいろいろを考え、何を以って冒険とするか、などなど。さらに第一歩をよしんば踏み出したにせよ、泣き言を言われたり、アクシデントがあったりすると、冒険はおろか、家路に戻ることすら覚束なくなる。

大人の世界では、特に仕事では、これらがもっと顕著に顕れて、私はどんどん何もしたくない病になるわけです。

一時期、自分のことをずーっと責めてばかりいたわけですが、そこで誰かが「君は君らしくいていいんだよ」と言ってくれただろうか?という記憶をなぞってみました。やはり私には死ぬほど殴ったし怒られたけれども、褒めてくれる父はいたし、文句も多かったけれども、優しく励ます母はいたし、知らないおじさんや、近所の人たちも決して直接嫌味なことを言ったわけでもなく、「楽しいな」と思えることはあったのです。けれども、どうしても他人に決められたことがうまくできない。

他人が決めた尺度・期待値・規範などに合わせようとすることは、私に気がないあいだは、何もうまく行かず、よしんばうまく行ったとしても、私が「思ったよりいい」ところまでは行かないし、感じないということに気づき、図書館通いのほうに逃避するわけですが、あの選択は本当によかったのか?そして、他人と違うことを貫き、特例としていくつかのことを許されてしまったがゆえに、仲間の年代からの不評を買い、それでも生きてはこられて、尖がりながら、やはり就職はせずに渡米したことは本当によかったのか?と、その後の積み重ねについても考えてみています。

今、こんな大人になった私は、負け惜しみではなく、「よかった」と思っています。もちろん、「威圧感」「違う」「変」「社会経験が少ない」などなど、今でも支払わねばならぬ代償はありますが、私がやっていることは、私が決めたことを目標としたことを達成するためのGive and Takeを伴うが、必ず自分の信念のうちにある品格を落とさぬ範囲のもの、と決めている譲歩です。

自分が考える正しいことや、恥ずかしいことや、やったほうが学びになることや、決められたルールの向こう側にあることを、ずっとずっと考えながら来たことに関して、とてもいいことだと思っており、マニュアルや他人が考えたルールにただすんなり乗らないことが、日々の「思ったよりいいかも」をどんどん繋げてきてくれていると、今では、子どもの頃のけなげな態度を貫いたことを、なんだか宝物のように思えています。

私は質問魔のようで、どこに面接に行っても、どこに営業に行っても、質問をたくさんして、「お!?」と思ってもらえる半面、「鬱陶しいやつだな」と思われるリスクも持っています。いつも何かに対して疑問を持ち、こうかもしれない、こうなるだろう、こうなってほしい、こうなるようにこうしよう、と考えながら、何かを行う。もう癖になっていて、考えるのをやめろ!と言われても、高熱が出て考えられないだとか、酔っ払いすぎたとか、眠くて死にそうだとかいうとき以外は、もう無理なようです。

「思ったよりいいかも」とそれでも謙虚に出てくる結果について考えられるゆとりもあって、毎日いくつもの「思ったよりいいかも」があると、「ああ、今日もいい日だった♪」と思えるバロメータ。ひとつひとつの授業もそうだし、乗った電車での時間の使い方もそうだし、手に取った本もそうだし、料理にしてもそうです。買い物はめったにしないんですが、買い物も同じ。

今年もたくさんの「思ったよりいいかも」が増えていき、たまに大いに「世の中捨てたもんじゃないな」があると、元気に生きていけるような気がします。みなさんは、「思ったよりいいかも」を感じていますか?

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