思考や世界観を表現する

04/21/2008 にアップした文章です。

 

チベット問題について、あれからエッセイに書かずにこれまで傍観してきたのですが、相も変わらず、すごいんだなぁ、中国も、日本も。私は、せめて自分にできることしかできない、を軸に、英語クラスの中で、折に触れて生徒さんたちの意見を、「言葉にすることで考えるチャンスにする」という試みを、人知れず(?)行っていました。それを英語で言えることができればいいんですが、「まだ、なかなかねぇ・・・」という人のほうが多かった。さらに、私が体験してきた、抗議運動を話すことで、臨場感のカケラでも伝わればいいなと、余談も交えてきたのです。いくら想っていても、伝える行為をせねば、なかなか伝わらないことは、みんなわかってくれた模様・・・。やはり『男は黙ってサッポロビール』の文化は、まだ根っこのほうにあるようで・・・。



中国人ですら、中国各地でフランスデモ(手を繋いで道幅いっぱいに大勢で行進すること)をやっているというのに、傍観者だから、という理由をつけて、日本人が自分の考えを声にしないのは違うだろうと、つくづく思いますね。いや、ネットで書いている人は何割かいるんでしょうが、それが届く先を考えてみるのもいいかと思います。

 

聖火リレーについては、みな、割と簡単に意見が言えていました。「そもそもここ最近のトレンドなんだ、あの聖火リレーは」というコマーシャリズムのような批判が多かったです。あれにより、本当に世界平和が実現しているのであれば、どんどんやればいいが、今回のような警備が必要であれば、余計にお金がかかったり(しかも税金から出ているはず)、ただセンセーショナルなニュースのネタになるだけで、世界中の人々の+にはなっていないのではないか?というのが大半の意見でした。笑えたのは、「聖火なんて何度も消えているのに、あの中国の聖火防衛隊はおもしろい」というもの。しかも、彼らは聖火ランナーなどにおかまいなしに、聖火そのものを守るのだそうです。聖火ランナーから聖火を取上げている場面もあったらしく、かなりコミカルなところを、世界中に披露しているのだそうです。私は、活字でしか見ていないのですが、ニュース番組を見ているとそう感じるそうです。

 

「権威や権力のほうが、人より先に立つ」といういい例になってしまっているのか・・・。

 

相変わらず、中国がチンプンカンプンなことを言っているなぁと思うのは、「チベットはそもそも誰の国だったのか?」ということで、60年弱経ったからと言って、その独立はありえない前提から話を展開することは、どうしても矛盾が起きる。しかも、統治下で、民族差別が起きていることへの証拠は枚挙に暇がなく、この世界人権宣言がある時代に(しかも、1948年なのだから、そもそもチベットを自分のものにしていいわけもない中国・・・)、理解できていますか?と改めて問いたいですが。

 

http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=694 >谷川俊太郎氏による世界人権宣言の訳

http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=908 >これが全文。

 

まぁ、国防と政治と国連のつりあいというのは、本当に難しいところなのでしょうが、だからこそ、こうした見張り役的な意味での、国連という機関は必要です。そればかりがいいわけではないにしろ、本当に世界中の人々が幸せに向って歩んで行ける環境を提供できなければ、民主国家とも先進国とも胸を張れず・・・。

 

そうしたあからさまなマインド後進国の中国に対して、個々人を責めることとはまったく別の次元で、なんらかの自分の意見・スタンスを表明するのは大切なことです。中国擁護をしすぎる朝日新聞という通説が常識化しつつある日本らしいのですが、私は新聞を読まなくなって久しく、ネットでも朝日はたまにしか読まないので、それを今回まであまり実感しませんでした。みなさんは、サッカーのときに日本の国旗を燃やしたり、足で踏みにじられる事件があったりしたときなどに強く感じたのでしょうね。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%95%8F%E9%A1%8C >チベット問題に対する批判も載っています。

 

このあいだも、忙しすぎて誰なのか、どこの局なのか、チェックしきれなかったのですが、高齢に見える男性は、「ダライラマは宗教家などではなく、政治家だ」と作為的なここまでの彼の動きは、「計算されつくされたもの」と、シアトルでのダライラマの学生との懇親の様子を見て、語っていました。冗談を交えて会場にいた大学生たちを笑わせたダライラマを、「こうして世界に行脚して廻っている」と。うーん、可能性として、「これが彼の素に限りなく近い実現体」とは思わないのかなぁ。私は、決してナイーブな大人でもないつもりでいるのですが、こんなに長いあいだ、平和をアピールできたからこそ、ノーベル平和賞にも値したと思うし、やはり政治家よりも宗教家の割合のほうがずっとずっと大きいと思っています。

 

それだけではなく、「彼が一度も中国政府に対して、あからさまな攻撃的批判をしないのは作戦:それにより、世界中を巻き込みチベット問題に関心を持ってもらいたいため」と言い放っていたのですが、2点問題あり。宗教家として、攻撃的ではないことは、彼のこれまでの人生の軌跡を見てきても単純に理解できるということ。本当に攻撃的になれるかどうか?のキャパは知りませんが、英語で報道されている部分も含めて、彼が攻撃的だったことは、公人として扱われてきてずっと見たことはないです。攻撃的に批判しないといけないのか?その可能性はでかいのか?もうひとつは、世界中を巻き込むことはまったくのところ、いいことではないんでしょうかねぇ・・・。多数決に委ねるわけでもなく、これまでも、コソボにしろ、ユーゴスラビアにしろ、パレスチナなどの諸問題にしろ、世界各地で起きてきた紛争というのは、世界中がスタンスを持って然りでしょうから。

 

不思議なコメントであった・・・。むしろ、そんな諸問題に対して、無関心で何も表現しないほうが、ずっと罪だろうよ・・・(汗)。攻撃的に批判することばかりが脳でもなく、どんなアプローチをするのかが、その人のキャパを表していくんだろうよ・・・(汗)。と、思うので、あんなコメントでコメンテーターとしての代償をもらっているのであるとしたら、オソマツ極まりないです。うひ、ダライラマを尊敬している私としては、どうしても偏って考えているのかもしれず・・・←ご意見ください。

 

かと言って、私は中国人全体をネガティブに評価しているわけではありません。国家の体制や体質に対しては非常に不愉快ではあり、論理に叶っていないと思っていますが、個々人には多様性があるでしょう。私自身も、ステキな中国人には何人も邂逅していますし。

 

貧富の格差にしろ、言論の統制にしろ、差別にしろ、世界へ自国の醜態をさらすのは、国民ひとりひとりの表現する態度であると思います。『障らぬ神に祟りなし』ではないですね。無関心な態度は、参加していないという意味では、最も卑怯な態度かもしれません。知らないというのは、最も無知をさらけ出している表現なのかもしれません。

 

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