悩みやすいかどうか

05/12/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、産業カウンセラー講座に行っていて困るのは、私には悩みというものがないのだなぁということ。カウンセリングの練習なので、実技のほうは、組んだ相手に対して、悩みや自分について語るのですが、その中でカウンセラーが共感してくれることをせめて話そうと思うのですが、カウンセラー冥利に尽きるような悩みは持っていないんだよなぁ・・・。いや、正確に言えばなくもないのだろうけれども、悩んでもどうしようもないことについては、悩みとして認知していないということなのだろうなぁ・・・。愚痴や不満もそれほどなく、毎日かなり楽しく暮しており、子どもの頃、あんなに時間が余っていて、時間が過ぎていくのを遅く感じており、夏休みを待ったり、夕ご飯の時間を待ち望んだりしていたのが嘘のようです。あっという間に夜になり、あっという間に朝が来て、いつの間にかこんな歳になってしまっている感じの日々です。うーむ・・・。




悩み:(1)悩むこと。思い苦しむこと。思いわずらうこと。煩悶(はんもん)。(2)病気。わずらい。

愚痴:(1)言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。(2)〔仏〕 三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。痴。癡。

不満:十分に満たされていないと思うこと。満足しないこと。また、そのさま。そのような気持ちや心のわだかまりをもいう。

認知:(1)それとしてはっきりと認めること。(2)法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子を、親が戸籍法の手続きによって、自分の子と認めること。自発的に行うことを任意認知、裁判による場合を強制認知という。(3)〔心〕〔cognition〕生活体が対象についての知識を得ること。また、その過程。知覚だけでなく、推理・判断・記憶などの機能を含み、外界の情報を能動的に収集し処理する過程。

 

そうか・・・と、日本語チェック。持っている意味がわからないと明後日なことを話していることになるしね・・・。

 

思いわずらうことはありますねぇ・・・。

世界平和はきっと来ないのだろうな。どうしたら世界平和を実現できる条件や環境が整うのかな。

できたら重力に逆らいたいのだけれども、やっぱりヒトという生命体に生まれたんだから仕方ないよね。2本足歩行もしているんだし、そのせいで下に下がるのは仕方ないよね。

くだらないことで人殺しが行われたり、チューリップなどの花にまで当たったり、白鳥や黒鳥やウコッケイが殺されているのはさみしいよなぁ・・・。でも、私の力が及ぶ範疇ではまったくないよねぇ。世界中の人々64億から65億の人々のマインドコントロールなんて、バカげた話だし・・・。

物価が高いのは困るなぁ。でも、自給率が低いままでゲンジツを見てこなかったんだから、私にも少しは責があるし、海外にまで逃亡していたんだし、システムの悪さは声高に言えても、繰言を言っていても何も変わらないしなぁ。

 

とまぁ、こんな調子なので、悩みとまでは行かないことになります。同じ世界に生きているのですが、環境はヒトそれぞれ違うし、登場人物も微妙に違うので、きっとヒトによってこれらのことが悩みにもなるんだろうなぁ・・・。

 

もっと個人的なことで悩まないのか?と聴かれても、私はお金が足りないこと(ほら、生涯学生でいるには、私の試算では3億くらいかかるんですよ。たいへんな金額である。理想的には5億から6億欲しいところです)や、持病や、恋愛(もう恋愛心はないしなぁ。それも昨日ある女の子と話していて実感したし・・・)や、将来について、悩むなどということもないよねぇ・・・。そこに問題があったら、どのように問題を見据えて解析して、どのように解決していくか?それにはどのくらいの時間がかかって、どのくらいの成功率で、失敗したらどのようなオプションがあるか?などなどを、考えることにしているので、「思う」ことで終わらないしさ・・・。

 

上記のことをするのに、資料や情報が足りなければ、それを収集する能力を身につけてくればよかったことで、大昔は図書館に3・4時間へばりついていることなど当たり前でしたが、今はインターネットがあるからいいよねぇ。キーワードさえインプットすればもう1秒以内で出てくることが多い・・・。そのキーワードの選び方さえ洗練されれば、ごくごく近い情報にしっかり行き着くし・・・。

 

私が今、猛烈に思うのは、10代頃までは私もけっこう悩んでいたと思うんですよ。もちろん、その時代にインターネットがあれば・・・という仮説も成り立つのですが、おそらく、その頃の私では、「これ!」という正確な情報に行き着く前に、罵詈雑言のほうが気になってそっちに見入ってしまったり、正確さのバロメータがわかっていなかったり、感情的なことに引きずられて、自分の好きな人の意見を重視したり、と、まぁ、ゲンダイの若い人たちがやっているであろうことを、きっとやってしまっていたに違いないので、インターネットについても、「おいおい、ネットが便利なのはすべてのヒトにとってではなく、前準備っつぅもんがあるだろう・・・」と強く思うのです。悩みが余計深くなるツールでもあるだろう、と。

 

かと言って、私はこれらの「思い煩うこと」を認知していないわけではなく、日々の課題として見据えており、それは私の中に本気で組み込まれていることが多いです。まったく手をつけていない分野というのもあり、それが喫煙か・・・(汗)。止めたほうがいいのはわかっていえても、まだ動機付けをうまくできていないので、放置してあるわけです。いつまでも放置していてもいいことはないと思っていつつ、あまりに思い煩い、何度も何度も、ダイエット中の人が冷蔵庫の中を見てため息をつくようなことをしては逆効果なので、見つめる時間を決めたり、忘れないように肝に銘じるわけです。でも、全体的には自分の免疫性を信じるしかないので、このまま放置状態。

 

そういう意味で、自分の認知方式というのを知るのは、かなり有効だと思うわけです。極端に悩むこともなく、かといって、ただの能天気野郎で終わるわけでもなく、謙虚かつ明るく居られるというのは大切。

 

が、私の通うカウンセリング講座は、RogersというClient-Centered Therapy(来談者中心療法)を採用しているところなので、そればかりに偏るのですね。折衷主義(Eclecticism)のカウンセラーは、どんな学派の理論も実際には活かしていないことが多い、と、そのテキストにも書かれていますが、私はぜひ反論したいところです。いや、そんなこたぁねーだろー、と。

 

私はやはり理系な脳を使っている部分も大いにあるので、人間中心性の物事の捉え方だけでは、どうしても満足がいかないのだろうと思います。心理学そのものが答えが複数ある不完全科学なので、その補強に数学や生物学や物理やその他、全部使って何が悪い!とやっぱり考えているのです。これも私の認知方法である(笑)。

 

悩みやすいかどうか、という分かれ目、分岐点は、己の認知方法を知っており、それについて不完全や悪い癖などがあったら、修正していく勇気が持てるか?ということなのだろうと思うのです。圧倒的に他人が悪いだとか、圧倒的に自分が悪いことなど、この世にはほぼないです。やはりいくばくかずつの責を、みんなが持ちつつ営みは汲み汲みと続いています。自分ばかりを責めてもおかしな認知だし、他人ばかりを責めてもおかしな認知なわけです。でも、その最初の一歩ができないところで、悩みやすい体質になっているとしたら、認知方法を知るのは大切だと思うんですよ。

 

さて、私は来週、どのような悩みを話したらいいのだろうか?ネコについては話してしまったし(うどちゃんは腎臓病持ちの16歳だけれども、心配したって時は流れていき、いつか死ぬということで、解決はついちゃったんだよね・・・)、日本に戻って来てまだまだたくさんあるアジャストメントについても話してしまったし(ここにも多数書いたけれども、まだまだ続くのね・・・)、英語講師はコマ数勝負ということも話してしまったし・・・。と、模索は続くのである・・・。

 

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