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悲恋を重ねて人は育つ

02/12/2008 にアップした文章です。

ここのところ、『星の金貨』の再放送を、時間が合うときだけ見ています。実は、これは北米のSan Francisco Bay Areaの8チャンネルで放映されたのです。しかも、英語の字幕がつくんだ♪私はドラマがどうも苦手で、毎週忘れないように見ることができず、思い切ってレンタルをして、1日で見てしまったシロモノです。いやー、泣いたねぇ・・・。まどろっこしいと言えばまどろっこしいのですが、私はこんな悲恋をしたことがないので、「在り得るかもしれないじゃん・・・」と自分を説得しながら見ていたわけです。こんな悲恋を重ねたら、人はたくましくなるんだろうなぁ・・・。いや、違う意味で、私はたくましいんですけどもね(汗)。

悲恋:実らず悲劇に終わる恋。

悲劇:(1)不幸や悲惨な出来事を題材とし、人間や人生を悲壮さ・崇高さの面からとらえ、受難とそれへの闘いの過程を厳粛に表現した劇。主人公の破滅で終わるのが普通。運命悲劇・性格悲劇・境遇悲劇などに分けられる。⇔喜劇 (2)悲惨な出来事。

進化心理学でいうところの、種の保存や種の存続ということに、私は積極的に、一次的には存続していないのですが、その理由としては、生存競争もパワーゲームのひとつであり、あまり参加したいとは思わなくなったというのが、後付けの事実です。30代の頃はしょっちゅう考えたものですが、なんだか希薄なのですね。負けん気が強く、どうしても勝負には勝ちたいという勝気なやつに誤解されがちなのですが、実際は、刹那的でもあり、生命体の生命などというものは、長い歴史や地球規模から見ると、たいへんにちっぽけなものだということがわかっており、「刹那だからゆえに遊ぼう」という気持ちも生まれずじまい。けれども、もがくことだけは忘れず、ここまで私しかできないようには生きてきたつもりです。が、なんだか何のために生命体として生かされているのだろうか?と、この淡白さ加減を不思議に思うこともしばしばな昨今です。

今日、金曜日に一旦1が終わり、来週の火曜日からは『続・星の金貨』が始まるそうで、私も仕事がなければ見られるのですが、録画してまで見たいわけでもなく・・・。このへんが淡白な由縁なのでしょうなぁ・・・。いや、でも見れば泣きますよ(笑)。ところが、仕事は相変わらず忙しく、見られる日はほぼないかもしれない。

世紀の大悲恋を映画や小説で見つつも、実際にものすごい悲恋をした人から、直接お話を聴いたことがないような気がします。私が現実的すぎて、きっとそういった引力がないせいなのでしょう・・・。私は、10代の頃、西さんにやっぱり似た人たちと恋愛をしました。タイプというのはあまり変わらないのでしょうね。が、一度だけ悲恋を体験したことがあります。

全日本選手権ロードレースの国際A級のオートバイのレーサーでした。その人は転倒するか、表彰台に乗るか、どちらかというタイプで、ケガが多く、こちらのほうがどうもやっていけない気分になってしまい、アメリカにさっさと逃げてしまいました。当然、その彼にとっても私は本命などではなく、消耗品というか、一過性のイベントだったのでしょう。のちにアメリカで再会するのですが、いい感じの大人の男になっていたので、別れてよかったなぁと思ったものです。私ではあんな影響を差し上げることはできなかったことに対して、完全に白旗を揚げました。

他人の悲恋にはこれほど泣けるのに、自分がやりたくないという徹底した態度は何なのだ?と、苦笑しつつ、自分を分析するわけです。他人が関与することについて、他人をコントロールせねばならぬ割合が多くなることについて、とても嫌気がさしているようです。

生物を学んでいたときの態度は、目からウロコが多く、「なんだよ、こんなにヒトは動物として自然の摂理に支配されているのか・・・」の連続でした。恋愛もそのひとつで、社会動物の頂点に立っている「つもり」でも、実際のところは、見えない縛りである自然の摂理が大きく働いています。特に、動物であることを否定しよう!とがんばっているわけではなく、そもそもの「弱肉強食」の無駄な回避をして、大脳皮質が大きくなった利点を、より多く使いたいと思うようになってきたわけです。その中には当然、恋愛も含まれる。

そして私はどんどん枯れてきた・・・(爆)。どのくらい枯れてきたか?と問われると、こと、恋愛に関しては、中国の桂林のたたずまいに「うげぇ、暇だ・・・」と思わないくらいに溶け込めるくらいに。水墨画の中で生きていけるくらいに枯れてきている部分というのは、確実にあるように自覚してしまっているのです。

が、自分が積極的に参加せずとも、どうしてか他人の悲恋には泣ける。ドラマやストーリーは、おそらく実在している事実を、さらに切なく悲しく演出しているものが多いのでしょうが、それでも騙されているような気がせず泣けるなぁ・・・。それは、10代の頃からの経験があったから、という賜物なのでしょう。まったくのところ、恋愛で泣いたり笑ったりした経験がなければ、特にドラマやストーリーでも心が揺さぶられることもないのだろうし。

が、ここで思いっきりの矛盾を。タイトルの『悲恋を重ねて人は育つ』は、私は学習の度合いだと思うのです。何度も何度も恋愛するたびに結婚する人がいますが、あのエネルギーはどこから来るのだ?と半ば呆れつつ畏怖すら感じますが、すべての人にあれを勧めることはできない。「いくつになっても恋はしていたいものよね」と、年齢が上がっても言っている人々がいますが、私はそうは思えないし、私にはできないです。恋をするエネルギーを使うくらいであれば、他人によって私の核がひっくり返されるような翻弄に戸惑うようなくらいであれば、私はそのエネルギーをもっと穏やかな中で、他の分野からのドキドキを得たいと思ってしまうのです。実際に自然の摂理の中で生かされているということを実感するために、氷河を見る旅行などはいいのかもしれないし、Machu Pichuまで登ってみるのもいいかもしれない。

もしかすると、ネットに毒されて、秋葉原系までは行っていないとしても、疑似体験で満足している進化していないやつなのか?と、検討してみるのですが、そうではないようです。若い頃には確実にヴァーチャルではなく、現実世界で体験してきており、やはり私には恋愛は大きな重きが置けないようである、というのがわかってきて、西さんにも純粋な恋愛感情だけではなく、他のたくさんのものを織り交ぜてもらっている現状に、大満足しているからなのでしょう。

西さんがこの世からいなくなり、あるいは私と離婚してどこか逢えないところに行ってしまって、私がこの先ひとりで生きていくのはつらいな、と思ったときに、縁があればどうなるか明言はできませんが、今のところは、たとえひとりぽっちになっても、「もう恋愛はいいや・・・」と考えています。その代わり、読書や映画で見られる悲恋には泣きつつ・・・。砂漠の熱風を横断するよりは、傍観者のほうが向いているのだということを、きっと私は、小学校では学べなかったのかもしれませんが、中学や高校の運動会や遠足や揉め事や、10代の恋愛のいくつかで、既に学んでしまったのかもしれません。

枯れていることは虚しいのか?うーん、そうでもないですねぇ・・・。

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